2016年10月31日

2016.10.26 秩父三十四観音霊場巡り2日目午前

札所巡り順18-19-20-21-22-23-25-24

第18番 神門寺(ごうどじ)本尊・聖観世音
ご詠歌 ただたのめ ろくそくともに 大悲をば 神門にたちて たすけたまえる
御堂は唐破風の彫刻が素晴らしかったです。
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第19番 龍石寺(りゅうせきじ)本尊・千手観世音
ご詠歌 あめつちを動かすほどの 竜石寺 まいる人には利生あるべし
大きな岩盤に乗っかっている古い観音堂でした。
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第20番 岩之上堂(いわのうえどう)本尊・聖観世音
ご詠歌 苔むしろ しきてもとまれ 岩の上 玉のうてなも くちはつる身を
大覗岩の上にあるからこのお堂の名前なのです。観音堂は内田家の先祖が江戸時代にに造営したとのことです。
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21番 観音寺(かんのんじ)本尊・聖観世音
ご詠歌 梓弓 いる矢の堂に もうできて ねがいし法に あたるうれしさ
大正12年のお隣の小学校の火事で類焼した後、廃寺を移築したのが現在の本堂とのこと。
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第22番 童子堂(どうじどう)本尊・聖観世音
ご詠歌 極楽を ここで見つけて わらうどう のちの世までも たのもしきかな
茅葺の山門には童子の仁王様が見えました。お堂の彫刻も見事なものでした。
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第23番 音楽堂(おんがくどう)本尊・聖観世音
ご詠歌 音楽の み声なりけり 小鹿坂の しらべにかよう 峰のまつかぜ
長尾根の高台にありました。歌手のヒット祈願が多いらしくポスターが一杯貼ってありました。
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第25番 久昌寺(きゅうしょうじ)本尊・聖観世音
ご詠歌 みなかみは いづくなるらん 岩谷堂 朝日もくなく 夕日かがやく
仁王門に御手半寺の扁額がありました。閻魔大王からもらった石の手判があるとのことです。
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第24番 法泉寺(ほうせんじ)本尊・聖観世音
ご詠歌 あまてらす 神のははその 色かえて なおもふりぬる 雪のしらやま
観音堂まで一直線の石段は116段もありました。
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本日は快晴、朝は少し冷え込みましたがグングン暖かくなりついには27℃。無風だったので少し汗ばんだくらいでした。
途中、秩父ミューズパークそばの色づいたイチョウを見られるようにバスが通ってくださり、大いに楽しみました。多くの皆様、お世話になりました。ありがとうございました。
秩父ミューズパークといえば以下のお話を伺いました。
卒業式でよく歌われる『旅立ちの日に』(たびだちのひに)は、1991年に埼玉県秩父市立影森中学校の教員によって作られた合唱曲で作詞は当時の校長の小嶋登先生、作曲は音楽教諭の坂本浩美先生。近年、卒業ソングの定番となったことから秩父ミューズパークには、「旅立ちの丘」として展望デッキを備えた施設ができ、影森中学校の生徒によるコーラスが流れる仕掛けになっているとのことです。
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posted by yunofumi at 21:13| ドタバタ日記

2016年10月30日

2016.10.25 秩父三十四観音霊場巡り1日目

札所巡り順 1-2-3-4-5-7-6-8-9-15-11-10-

本日より秩父観音巡りツアーに参加。中型バスにて参加者13名で新宿を出発。
新宿〜関越自動車道三芳SA〜花園IC〜秩父・彩甲斐街道へ。
平日のため出発8:20ながらスムーズに進行し、現地には10時過ぎに到着。
途中秩父の御菓子司栗助にて先達(せんだつ)さんが登場し、様々な知識を教えながらの案内をいただいた。
持ち物はお線香・蝋燭・お経本・数珠・納札・ご朱印帳、お賽銭、その他風防ライターなどを確認。
多くの方は身支度として白衣・わげさ・さんや袋をお持ちだった。
お詣りのお作法は山門前で合掌と一礼、手水場(ちょうずば)で左手・右手・口すすぎ・柄杓の柄の清め・本堂へ参拝、納札・灯明1本、線香3本・お賽銭・ご朱印の順番。参加の方々は手慣れていました。私は初心者なのでまごまごしながらどうにかお詣り。

第1番 四萬部寺(しまぶじ)本尊・聖観世音
ご詠歌 ありがたや 一巻ならぬ 法のはな 数は四萬部の てらのいにしえ
観音堂は1697年(元禄10年)造営。入母屋造り千鳥破風付で風格がありました。
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初めての札所で発願する。

第2番 光明寺(こうみょうじ)本尊・聖観世音
ご詠歌 めぐりきて 願いをかけし大棚の 誓いもふかき 谷川の水
光明寺は納経所。秩父札所が34になった時、増設された所。観音堂は明治41年再建されたとのこと。
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第3番 常泉寺(じょうせんじ)本尊・聖観世音
ご詠歌 補陀落は 岩本寺と おがむべし 峰の松風 ひびく滝つ瀬
本堂前に子持ち石、万病に効く長命水がありました。本堂と観音堂の彫刻が素晴らしかったです。
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第4番 金昌寺(きんしょうじ)本尊・十一面観世音
ご詠歌 あらたかに まいりておがむ 観世音 二世安楽と 誰もいのらん
秩父札所の中では最大の仁王門と石仏が1319体もあるとのことでした。
観音堂は宝永6年建立。
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第5番 語歌堂(ごかどう)本尊・准胝観世音
ご詠歌 父母の めぐみも深き 語歌の堂 大慈大悲の ちかいたのもし
仁王様は優しい顔が印象的。観音堂は地元の青年棟梁が建造したとのこと。扇垂木の天井と四隅の擬宝珠が珍しかったです。
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第7番 法長寺(ほうちょうじ)本尊・十一面観世音
ご詠歌 六道を かねてめぐりて おがむべし 又後の世を きくもうしぶし
平賀源内の原図による札所最大の伽藍が印象的。本堂前には牛の石像がありました。
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第6番 ト雲寺(ぼくうんじ))本尊・聖観世音
ご詠歌 初秋に 風吹きむすぶ 荻の堂 宿かりのよに 夢ぞさめける
高台にあり見晴らしがよかったです。
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第8番 西善寺(さいぜんじ)本尊・十一面観世音
ご詠歌 ただための もことのときは 西善寺 きたりむかえん 弥陀の三尊
コミネツツジが樹齢600年とのことなのに見事な枝ぶりでした。
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第9番 明智寺(あけちじ)本尊・如意輪観世音
ご詠歌 めぐりきて その名をきけば 明智寺 こころの月は くもらざるらん
安産子育ての観音様として有名。庭の井戸水が美味しいとのことでした。
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第15番 小林寺(しょうりんじ)本尊・十一面観世音
ご詠歌 みどりごの ははそのもりの 蔵福寺 ちちもろともに 誓いもらすな
本堂が白漆喰塗りでした。
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第11番 常楽寺(じょうらくじ)本尊・十一面観世音
ご詠歌 つみとがも 消えよと祈る 坂ごおり 朝日はささで 夕日かがやく
秩父市街がみえる高台にありました。
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第10番 大慈寺(だいじじ)本尊・聖観世音
ご詠歌 ひたすらに たのみをかけよ 大慈寺 六の巷の 苦にかはるべし
石段を上がると仁王門と本堂がありました。
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本日は以上12寺院を巡りました。
初秋の秩父はかなり涼しくやや薄曇りながら14℃。
いずれも近い所の寺院だったためバスに乗降の繰り返しで結構疲れた感じでしたが実質は約10000歩。夜はホテル美やまの広々和室でぐっすり爆睡しました。感謝!
posted by yunofumi at 23:51| ドタバタ日記

2016年10月23日

2016.10.22 第5回東京の新発見旅「中野区」

〜林芙美子記念館〜哲学堂公園〜宝仙寺〜

西武新宿線中井駅⇒寺斉橋・妙正寺川⇒中井商工会・中落合1丁目⇒四の坂⇒林芙美子記念館⇒中井2丁目⇒坂上通り⇒土筆堂書店⇒中落合4丁目⇒中井出世不動尊⇒北原橋⇒上高田5丁目⇒光徳院⇒道しるべ石柱⇒四村橋・妙正寺川⇒新宿区立・中野区立・妙正寺川公園⇒哲学堂公園⇒水の塔公園・野方配水塔⇒連華寺・井上円了の墓所⇒中野通り・松が丘1丁目⇒松が丘シニアプラザ⇒中野区清掃事務所⇒新井小学校⇒新井薬師梅照院⇒薬師公園歩道橋⇒新井天神北野神社⇒新井五差路交差点⇒新井交差点⇒中野ブロードウェイ⇒サンモール⇒天ぷら天喜代(昼食)⇒中野区役所・中野サンピラザ・中野の犬屋敷⇒JR中野駅⇒中野2丁目交差点⇒新渡戸記念中野総合病院⇒桃園川緑道⇒本牧三宮前町会⇒山政醤油醸造所のレンガ塀⇒宝仙寺・堀江家の墓・中野町役場跡⇒宝仙寺前交差点⇒イーストンホテル⇒中野区朝日が丘公園・象小屋⇒成願寺・鍋島家墓所⇒地下鉄丸の内線中野坂上駅

妙正寺川(みよしょうじがわ)。
中井駅前でのいきなりの川の説明。杉並区の妙正寺公園内妙正寺池(すぐそばにある妙正寺に由来)に源を発し、途中中野区松が丘二丁目で江古田川を合わせ、新宿区下落合一丁目の辰巳橋付近で神田川高田馬場分水路に合流するとのこと。
教は中井駅前の寺斉橋、その後北原橋、四村橋など、清らかな流れを見ながらのウォーキングでした。

四の坂。
中井には“一の坂”から“八の坂”まで番号のついた坂名が並んでいるとのこと。東から 四番目の坂だから四の坂。四の坂通りを上っていくと林芙美子記念館に行きつきました。
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林芙美子記念館。
ここは林芙美子が1941年(昭和16年)から1951年(昭和26年)に死去するまで住んでいた家。その後、改築・整備し、記念館として公開したのです。生前実際に使用されていた茶の間、書斎、小間などの様子を庭先からみせていただきました。
画家だった夫・林緑敏の旧アトリエは展示室となっていました。またお庭は芙美子の思い入れが感じられました。
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中井出世不動尊。
江戸時代僧円空作の不動尊像(像高128cm)が祀られ、毎月28日午後に開帳されているとのこと。像は、不動明王ほか二体からなり、彫法は素木を生かした作風とのこと。
実は、都内で実際に信仰されている円空仏としては唯一のものだそうです。
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光徳院。
お堂の中はかなりの暗さでしたがなんと寺宝の千手観世音様は木像で高さ3尺3寸とのことでしたが何となくお姿をみられました。これは子育観音といい、第60代醍醐天皇の御代、延喜元年、右大臣・菅原道真公が筑紫へ左遷の時、自ら刻んで供養礼拝したとのことでした。

新宿区立中野区立妙正寺川公園。
妙正寺川の洪水調節池に設けられた公園で、川の水位が上がると公園に水が入り込むことになっている中野区立・新宿区立という公園でサッカーなどの運動ができる公園になっていました。すぐに中野区立哲学堂公園に続いていました。
哲学堂公園は、明治37年に哲学者で東洋大学の創立者、哲学者の故・井上円了博士によって精神修養の場として創設された、哲学世界を視覚的に表現し、哲学や社会教育の場として整備された個性的な公園。井上円了が、ソクラテス、カント、孔子、釈迦を祀った「四聖堂」を建設したのが、この公園のはじまり。この場所は源頼朝の重臣である和田義盛の城址だったとのこと。昭和50年に中野区立公園となってから、古建築物の修復、整備を重ね、また中野区内でも有数の花の名所として親しまれる公園でもあるとのこと。広大な敷地内には野球場・庭球場・弓道場もありました。
六賢台は明治42年建立。東洋的哲学人として、日本の聖徳太子・菅原道真、中国の荘子・朱子、印度の龍樹・迦毘羅仙の六人を「六賢」として祀ってあります。赤色塗り、六角形の周囲六間の建物で、四聖堂の西に建っています。屋根の上に相輪と九つの法輪(九輪)があり、最上部に宝珠を付け屋根の棟瓦の一端に天狗がついているとのこと。本日は中に入れました。
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色々古い建物がありました。再度じっくり見に来るようです。

野方配水塔(のがたはいすいとう)荒玉水道の野方給水場の配水塔。
野方配水塔は、1929年に竣工、配水塔としては1966年に使用を停止。現在は中野区の災害用給水槽。地元では江古田川・妙正寺川に向かって高台にあたる。
塔に空襲時の弾丸の痕跡が見られました。今は中野区の平和史跡で、周囲は中野区立みずのとう公園・みずのとう幼稚園となっています。
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連華寺の円了の墓所がありました。
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井上円了は、安政5年(1858年)現在の新潟県三島郡越路町生まれの哲学者。教育者としては明治の中頃から大正に多彩な活動をした方。とくに、西洋哲学による仏教の新しい解釈に基づいた既成仏教の革新、キリスト教の批判や迷信打破の運動をしたとのこと。また、哲学館と哲学堂をつくり円了としては「護国愛理」をもとに学校教育と社会教育の振興をはかり、国民道徳の普及と向上「考える人」の養成をめざし国家への報恩を願ったのです。

新井薬師梅照院(あらいやくしばいしょういん)。
1586年(天正4年)創建。開祖は僧行春。ご本尊は空海作の伝承を有する薬師如来と如意輪観音像。本尊は表を薬師如来、裏を如意輪観音とする二仏一体の像であるといわれており、12年に一度、寅年のみのご開帳とのこと。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の五女で後水尾天皇中宮の和子(東福門院)が当寺の薬師如来に眼病平癒を祈願したところ、たちまち回復したことから、特に眼病治癒のご利益に関して有名、また子育てなどにも利益があるといわれているのです。
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新井天神北野神社は天満宮として天正・天和(十六世紀)の頃には新井の里の鎮守であったようです。豊かな水に恵まれた新井の村は、 妙正寺川の水害からの守護を天神様に祈り、すべての食物の御親である保食神に豊作を祈願したのです。天神様として祀られた菅原道真公は優れた学者でまた右大臣にまで出世されたことから、後には学問の神として尊崇を集め、 学業成就・子の成育・家内安全・家門隆盛・事業繁栄・工事安全・交通安全・厄除など祈願する人が多くなったのです。境内に稲荷神社、大鳥神社、なで牛、力石などありました。

中野ブロードウェイ。
この土地はもとから小さな木造密集地帯。それと乃木希典のゆかりの地でもあったとのこと。1966年(昭和41年)、中野駅北口開発の一環として中野サンモール商店街に続くショッピングコンプレックス(商業住宅複合施設)、中野ブロードウェイが開業。オープン当時は食品、服飾、雑貨、食堂、理美容室、町医者、宝飾、書店、占い業などの商店街がそのままビルに入ったような小売・サービス業の個人営業の店が大半。元々この辺りは、中央線文化といわれるアニメ制作会社や大学、学校、若者といったマニア向け商品の顧客層が多い土地柄で、特に中野はお笑いを中心とした芸人、高円寺はミュージシャンが多く住むと言われ、住人層や街の雰囲気は、「サブカルの殿堂化」しオタク・サブカル文化が浸透したようです。混沌とした雰囲気から「オタクビル」「魔の巣窟」「日本の九龍城」などの異名を持つ。近年「オタクの聖地」としてマスメディアが取り上げる秋葉原とは一味違った独自の文化を形成している。アニメ商材の多い秋葉原に比べ、古本・プレミア玩具などレトロ商品の販売店舗が多いのが特色といえる。ビルの入居店は、漫画古本などのマニア・おたく向け商品店の「まんだらけ」、高級オーディオ・ビジュアル機器専門店の「フジヤエービック」、大型書店の「明屋書店」、サブカルチャー関連書籍・ミニコミ・同人誌専門書店「タコシェ」など。またマニア向け専門店のほかに、輸入雑貨店、美容院、ネイルサロン、飲食店、洋服店、寝具店、ゲームセンターなども入店しているので女性客の利用も多く、老若男女、世代性別を問わず、多くの買い物客で賑わっていました。正直目が回りそうでした。

中野サンプラザは、宿泊・音楽などの複合施設で、特にコンサート会場として、またアイドルの「聖地」として有名。1973年(昭和48年に開業。最近のニュースで
老朽化による建て替えを検討とのことです。
隣の中野区役所そばに中野の犬屋敷があったようです。
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1695年(元禄8年)にこの辺りの16万坪の土地に犬小屋が造られたとのこと。25坪の犬小屋が290棟、7坪半の日除け場が295棟、子犬養育所が459か所、そのほかに役人の住居や付属施設がありましたのです。
そして元禄15年には約29万坪(道路も含む)に拡張されたのです。
1709年(宝永6年)、綱吉の死とともに「生類憐みの令」は撤廃され、中野犬小屋も廃されたのでした。

新渡戸記念中野総合病院は、昭和7年に故新渡戸稲造博士(旧5000円紙幣の肖像)・故賀川豊彦氏等の主唱によって創立された、日本で最初の医療利用組合の病院。地域医療の中枢病院として、“誠実”を理念とし、患者サービス・医療技術の向上に努める、70年の歴史をもつ総合病院。今は東京医療生活協同組合の病院です。

桃園川緑道(ももぞのがわりょくどう)。
桃園川は、杉並区と中野区を流れる河川。全区間暗渠化されており川の上が緑道なのです。約2.8kmはあったようです。

山政醤油醸造所のレンガ塀。
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これは明治初期創業のやままさ醤油醸造所のレンガ塀の北側の一部を移設したもの。石灰、海草のつのまた、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とレンガを交互に積み重ねるフランス積みといわれる工法で造られています。建造は、1899年(明治32年)。中野での初期洋風レンガ構造物と言われている浅田銀行本店を手掛けた中野在住の棟梁と弟子たちによって、 醸造所の蔵とともに築かれ、石灰、海草のつのまた、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とフランス積みといわれるレンガ積み工法で造られ ています。当時、レンガ塀の築かれた青梅街道沿いは、中野の商工業の中心地として賑わっていました。また、みそ・醤油の醸造は、そば粉製造とともに中野の代表的な地場産業でした。

宝仙寺は 平安後期の寛治年間(1087〜94)源義家によって創建。このとき義家は、奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の途中にあり陣中に護持していた不動明王像を安置するための一寺を建立したのです。その地は 父頼義がかつて祭祀した八幡社のある阿佐ヶ谷の地でこの造寺竣成の時、地主稲荷の神が出現して義家に一顆の珠を与え「この珠は希世之珍 宝中之仙である是を以って鎭となさば 則ち武運長久 法燈永く明かならん」と言いおわるや白狐となって去りました。これにより山号を明王山、寺号を宝仙寺としたと伝えられます。その後、今の地に移り、江戸初期の1636年(寛永13年)には三重塔が建立され、江戸庶民にも親しまれ歴代将軍の尊崇もあつく御鷹狩りの休憩所としても有名でした。宝仙寺の大伽藍は昭和20年の戦禍により焼失。現在の伽藍は昭和23年より順次復旧したものです。
明治28年から昭和の初期まで中野町役場や区役所が境内に置かれていました。

中野区朝日が丘公園と象小屋。
江戸名所図会に「中野に象厩を立ててそれを飼おせられし」とある象小屋は、中野区朝日が丘公園にあったといわれています。当時、象は大変珍しい動物で人々の好奇心をそそり、書物や象にちなんだ調度品などが盛んに作られました。中野の象は、1728年(享保13年)中国人貿易商鄭大威が安南(今のベトナムあたり)から連れて来たもので京都では中御門天皇と霊元法王の謁見を受け、江戸で将軍吉宗が上覧した後、しばらく浜御殿に飼われていました。後にこの像を下げ渡された中野村の源助は、成願寺近くに象小屋を建てて飼育を続けたのです。1742年(寛保2年)に像は病死し、皮は幕府に献上され、牙一対は源助に与えられました。この牙は、宝仙寺(現、中央2丁目)に保存され、戦災にあったのです。

成願寺(じょうがんじ)は、中野長者(なかのちょうじゃ)と呼ばれた鈴木九郎の寺として知られています。
ここには佐賀藩主だった鍋島家墓所がありました。
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本日のツーリズムのウォーキングツアーの案内は元気な牧講師とCDは佐藤さん。参加者は19名で程よい大きさの集団となりました。気象状況は曇天無風、20℃とベストコンデション。約19000歩はまずますの距離。本日のメインはやはり林芙美子記念館と哲学堂公園、新井薬師寺。はじめての中野区でしたのでオモシロイ体験が一杯でした。感謝!!
posted by yunofumi at 23:39| あちこちウォーク

2016.10.19 第4回東京の新発見旅「墨田区」

向島百花園〜復興記念館〜相撲博物館

東武スカイツリーライン東向島駅改札口⇒東向島粋いき通り⇒東武博物館⇒東向島4丁目・百花園入口交差点⇒向島百花園⇒和カフェみづき⇒墨田区露伴児童遊園⇒向島達鮨⇒
鳩の街・東向島1丁目⇒榎本武揚旧居跡・向島5丁目⇒ライオンズマンション言問⇒墨田公園少年野球場⇒墨堤通り・墨田川七福神・都鳥の歌・墨堤植桜之碑と桜勧進⇒正岡子規仮寓の地⇒長命寺桜もち山本や⇒長命寺・城島柳北之碑・芭蕉雪見の句碑⇒出羽三山の碑⇒須崎会館⇒弘福寺⇒向島5丁目・美家古⇒桜橋通り⇒見番通り⇒三囲神社・三角石鳥居⇒小梅小学校⇒墨田郷土文化資料館⇒佐多稲子旧居跡⇒言問橋東交差点⇒言問だんご⇒牛島神社・二峯先生之碑⇒堀辰雄ゆかりの地⇒小梅牛島通り⇒東武橋⇒日本料理なりひら(昼食)⇒業平橋・業平1丁目⇒大横川親水公園・紅葉橋・ほうおんじばし・清平橋⇒甘味処北斎茶房⇒亀沢3丁目⇒北斎通り⇒野見宿や神社・歴代横綱の石碑⇒緑町公園(津軽家上屋敷跡)⇒青芽橋跡⇒亀沢1丁目・渡辺パイプ梶ヒ江戸東京博物館⇒徳川家康銅像・日本大学第一学園⇒置いてけ堀御竹蔵跡⇒第一ホテル両国⇒横網公園⇒旧安田庭園・水門跡⇒国技館・相撲博物館⇒JR両国駅

東武博物館。
東武スカイツリーライン東向島駅の高架下にある博物館。1989年(平成元年)に東武鉄道が開設しており、電車運行のしくみや運転操作シミュレーション、実物車両などの展示がありました。さいたま市にある鉄道博物館はJR東日本の博物館でとても大規模。それに引き換え東武の博物館ですからややこじんまりですが十分楽しめました。パンフがいっぱいでしたが「地方民鉄旅ガイド」はとても楽しい小冊子でしたのでいただいてきました。
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向島百花園は江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804〜1830年)に造られた庭園。庭を造ったのは、佐原鞠塢で旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園したのです。開園当初は、360本のウメが主、その後、ミヤギノハギ、筑 波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしてあります。「百花園」の名称は、一説で は、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたとのことです。
その後ずっと民営として昭和13年まで続き、その後京市に寄付され今日にいたっているようです。
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もう花は終わっていましたが、萩のトンネルが有名です。
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墨田区露伴児童遊園。
幸田露伴住居跡に1950年に作られた児童公園。幸田露伴は、1908年から1924年までの16年間、蝸牛庵と名づけた住居で数々の名作を書きました。作品を書くかたわら、庭で門弟を相手に剣道、旧道、相撲などをして遊んだと伝わっていりその話をもとに児童遊園となったようです。園内には、「幸田露伴文学碑」やカタツムリのオブジェもありました。
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榎本武揚は幼い頃から学才に長け、儒学、蘭語、英語など恵まれた環境で洋学の素養をはじめ、樺太探検や長崎海軍伝習所での蘭学や造船学、航海術などを身につけたとのこと。また、文久2年(1862年)には幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方で、国際法や軍学も修めました。戊辰戦争では官軍と戦い、五稜郭で降伏して3年間投獄されていたのが、その後、新政府で文部大臣、外務大臣などを歴任したのです。下町情緒を好み、明治38年から73歳で没する明治41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたとのことです。旧居跡にはマンションになっており説明板のみがありました。
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墨田公園少年野球場は, 昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年 に明日への希望」をスローガンとして, 有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場。目測では 60m x 40mぐらいのグラウンドで, 周囲は高いフェンスで囲まれていました。今や日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治さんもこの 球場から育った一人とのことです。
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墨堤通り(ぼくていどおり)は都道461号の一部で沿道には墨田区役所、墨田公園や牛嶋神社、東白髭公園や隅田川神社などがあります。
私たちは墨田川七福神・都鳥の歌・墨堤植桜之碑と桜勧進などの説明板を見ました。
墨田川七福神は多聞院(毘沙門天)、白鬚神社(寿老神)、向島百花園(福禄寿尊)、長命寺(弁財天)、弘福寺(布袋尊)、三囲神社(大国神、恵比寿神)です。
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「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」の都鳥の歌は日本童謡民謡の先駆者野口雨情が昭和8年に詠んだ歌。都民の心のふるさとである隅田川沿いを」飾るにふさわしい作品として記念碑が建てられたとのことです。
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墨堤植桜之碑と桜勧進。
1883年(明治16年)成島柳北、大倉喜八郎たちが、墨堤に約1000本の桜を植えたのを記念して、1887年(明治20年)建てられた碑。植桜碑によると、墨堤の桜は4代将軍家綱の時に始まり、1725年(享保10年)には将軍吉宗が植えることにかかわり1732年(享保17年)には、寺島村境から木母寺前まで土手の並木がつくられたのです。さらに1790年(寛政2年)、将軍家斉が植えかえ、文化年間には百花園の佐原鞠塢・浅川黙翁が、白鬚神社付近に150本の八重桜を植えたのです。その後も災害があっても隅田村名主坂田三七郎、三囲神社、須崎村の宇田川総兵衛などがどんどん桜を植えていったようです。また1854年(嘉永7年)、百花園2代目鞠塢・中山胡民・田中抱二たちが発起人となり「花勧進」を行い、多くの補植をしました。またさらに明治7年には、三囲の其角堂永機が1000本を植え、明治13年水戸徳川家が邸宅前に植えてついに枕橋にまで桜が並木がつながったのです。そして明治16年、大倉喜八郎と成島柳北たちが、1000本を補い、このことがきっかけで植桜碑の建立となったそうです。この植桜碑も明治29年現在地に岸より移したのです。
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正岡子規仮寓の地。
「向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉」
正岡子規は、向島周辺の景色を好み、歌を数多く残しています。
隅田川と墨堤の自然がよほど気に入ったのか、大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の2階に3か月ほど滞在したそうです。
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長命寺桜もちは、山本やの創業者山本新六が1717年(享保2年、大岡越前守忠相が町奉行になった年)に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして桜もちを考案し、向島の名跡・長命寺の門前で売り始めたことがはじまり。 その頃より桜の名所だった隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集り、桜もちが大いに喜ばれたのです。これが江戸の桜もちの始まりだそうです。
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長命寺の創建は不詳ながら、平安時代円仁の開山による創建と伝わっているようです。天台宗の寺院で山号は宝寿山、院号は遍照院といいご本尊は阿弥陀如来。隅田川七福神では弁財天が安置されていますが本日は見られませんでした。
芭蕉雪見の句碑「いざさらば 雪見にころぶ所まで」、実業家城島柳北之碑など多くの碑がありました。
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見番通り
墨堤通りと水戸街道に挟まれて見番通りが走っています。道の中ほどに 置屋の見番所があったのでこの名雨がついたようです。

三囲神社(みめぐりじんじゃ)の祭神は宇迦御魂之命(うがのみたまのみこと)
三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。理由は、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため、「三井を守る」と考えられたため。社域の一角には没後100年を経た三井家当主たちを祀った「顕名霊社」がある。三井グループ各社の総務部によって三囲会が組織されており、年に4回代表が一堂に会し祭典を催している。
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閉店した池袋三越前にあったライオン像も寄贈されている。 三越各店に分社があるが、なぜか日本橋本店(屋上)ではなく銀座店(9階屋上)に社務所がある。
三角石鳥居には「三井邸より移す。原型は京都太秦・木嶋神社にある」と境内に表示されています。三柱鳥居の手前には三本柱の屋根を持つ手水鉢がありました。
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牛島神社は860年(貞観2年)慈覚大師が御神託によって須佐之男命を勧請して創祀、のち天之穂日命を祀り、ついで清和天皇の第七皇子貞辰親王がこの地でなくなられたのを、大師の弟子良本阿闇梨があわせてお祀りし「王子権現」としたとのこと。1180年(治承4年)源頼朝が大軍をひきいて下総国から武蔵国に渡ろうとした時、豪雨による洪水のために渡ることができなかったが祈厳したところ、神明の加護によって全員無事に渡ることができたことから、頼朝は1180年(養和元年)社殿を造営し、多くの神領を寄進した。1538年(天文7年)に後奈良院より「牛御前社」という勅号を賜わったといわれているのです。江戸時代は鬼門守護の社として将軍家の崇敬があつく、将軍家光は本所石原に社地を賜わりお旅所とした。明治初年以後牛嶋神社と称し、本所総鎮守として崇敬されている。大正12年関東大震災で社殿等が炎上し、次いで帝都復興計画で隅田公園ができたため、向島一丁目(旧水戸邸跡)に移転、昭和7年現在の社殿が完成したのです。
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大横川親水公園(おおよこがわしんすいこうえん)は墨田区立の公園。
墨田区内を流れている大横川の多くの部分を埋め立てて造られた総延長約1800mの大規模な親水公園です。中には釣り堀や児童遊園をはじめ様々な施設がある。公園内の川は汲み上げ式のようできれいな水が流れている。
橋は現在、業平橋、平川橋、横川橋、紅葉橋、法恩寺橋、清平橋、江東橋があり、長崎橋は今はないとのこと。特に清平橋は亀沢四丁目と太平一丁目を結ぶ橋で約39m、平成24年に架け替えられました。昔は亀沢4丁目に清水町があり、太平と清水のそれぞれ一字をとり清平橋と名づけられたようです。今この橋は両脇に水道管があり、すさまじい状況になっています。この橋の構造がオブジェになってありました。
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また業平橋から見下ろす公園の端には大きなミラーを設置してあり、自分自身とスカイツリーを一緒に撮影できるようなビューポイントがありました。

北斎通りは、西は江戸東京博物館前の清澄通りから横十間川までまっすぐに伸びる道路。ちょうど京葉道路と蔵前橋通りの中間にあります。地下に電柱を埋めたことで歩道も広く整備され、両国と錦糸町を結ぶ通りとして地元の人々に利用されています。
江戸東京博物館の反対側の緑町公園そばに北斎生誕の地があります。ということで傍に北斎の美術館が建設中とのことでした。

野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)は、相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社。両国国技館の近隣に所在し、日本相撲協会が管理しているようです。
1884年この東側に部屋があった初代高砂浦五郎により元津軽家の屋敷跡に創建された神社。元の社殿は東京大空襲によって焼失したので1953年に再建され、現在に至るまで相撲関係者の崇敬を集めているのです。
歴代横綱の名前が刻まれた石碑がありました。
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東京都江戸東京博物館(とうきょうとえどとうきょうはくぶつかん)は、墨田区横網(すみだくよこあみ)にある東京都立の博物館。
指定管理者制度により、東京都歴史文化財団グループなどで管理運営をしているとのこと。ここは失われていく江戸、東京の歴史と文化についての資料を収集、保存、展示することを目的に、「江戸と東京の歴史や文化を伝える博物館」として1993年(平成5年)に開館しました。大きな建物で展示も多くゆっくり時間をかけて楽しみたいところです。
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江戸東京博物館への遊歩道の途中に徳川家康銅像がありました。亀の上に鷹狩り姿の徳川家康です。江戸なので家康はわかりますが、どういうことなのか、講師もわからないようでした。
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横網町公園は東京都の公園。
中には東京都慰霊堂、朝鮮人犠牲者追悼碑、震災遭難児童弔魂像、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑、子供の遊び場、幽冥鐘と鐘楼、東京都復興記念館などがありました。
教は東京都復興記念館
旧安田庭園・水門跡をじっくりみました。ここは関東大震災のことをつたえるべく当時の写真、絵画、遺品など多数あり、胸が痛くなりました。
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すぐそばに工事中の巨大な建物が見えました。「すみだ北斎美術館」とのこと。11月22日オープンということですからもうすぐ!!きっと伺います。

国技館はまだ入ったことがない私です。本日はたまたま相撲博物館には入れました。
写真撮影ができないのは残念ですがかなり面白いです。また行きたいと思います。事前に開館予定を見ておくことがコツのようでした。
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東武スカイツリーライン東向島駅に初めて下車しました。向島百花園は花の季節はさぞや素晴らしいと思いました。
墨田公園から長命寺桜餅の山本やで一休みは珍しく、おいしいひと時でした。
24℃、晴天と過ごしよい中のウォーキングは楽しく、16000歩を終了できました。
今後も楽しめそうです。
posted by yunofumi at 23:28| あちこちウォーク

2016年10月22日

2016.10.19 第4回東京の新発見旅「墨田区」

向島百花園〜復興記念館〜相撲博物館

東向島に初めて下車
向島百花園は花の季節はさぞや素晴らしいかも
墨田公園から長命寺桜餅の山本やで一休みはおいしいひととき
復興記念館は胸が痛み、亡き両親の苦労がしのばれました
24℃と過ごしよい日和のウォーキングは楽しく終了でした。

数日後に再度、詳細な記事に書き直します
お楽しみに
posted by yunofumi at 23:47| ドタバタ日記

2016年10月18日

2016.10.16江戸ぶらり古地図ウォーキング第1回両国

〜明暦の大火がもたらした変動〜
JR浅草橋駅⇒浅草見附公園⇒浅草橋⇒郡代屋敷跡⇒小松屋・柳橋⇒柳橋大川端通り⇒亀清楼⇒旧跡両国広小路⇒両国橋西交差点⇒やげん堀・中央区立産業会館⇒日本山妙法寺⇒薬研堀不動尊(大本山川崎大師東京別院)・納の年の市之碑・順天堂発祥の地碑・不動院通り⇒中央区立日本橋中学校⇒区立日本橋中学校前歩道橋⇒御幸通り⇒両国橋⇒両国広小路⇒墨田区立両国橋児童遊園⇒ももんじゃ⇒駒留橋跡・藤代町跡・片葉の葦・石尊垢離場跡・赤穂浪士休息の地・旧両国橋・広小路⇒春日野部屋⇒式守家⇒相生町跡・両国2丁目⇒井筒部屋⇒前原伊助宅跡⇒・両国3丁目⇒吉良邸正門跡⇒両国小学校・芥川龍之介文学碑・錨の碑⇒両国公園・勝海舟生誕地の碑⇒千歳公園⇒飯澄稲荷社⇒松 稲荷大明神・本所松坂町公園⇒墨田両国三郵便局⇒東京パフ梶ヒ両国シティコア・旧国技館跡⇒回向院・力塚・鼠小僧の墓・塩地蔵⇒両国駅そばオブジエ⇒JR両国駅⇒国技館⇒旧安田庭園・水門⇒JR両国駅

浅草見附公園。
江戸城の警護のために36か所設けられていた見附のひとつ・桝形だった門は「浅草御門」といわれ、警護の人を置き浅草観音や奥州街道の往来を取り締まったとのことです。
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浅草橋。
神田川にかかる江戸通り (奥州街道) の橋で地名にもなっていました。この辺りには玩具,文房具などの問屋が並び,住宅と混在しているようです。
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郡代屋敷跡。
江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理したのが関東郡代でこの方の役宅跡です。
関東郡代は、徳川家康が関東に入国した時、伊奈忠次が関東郡代でした。その後、伊奈氏が十二代にわたって世襲。もともとは江戸城の常盤橋御門内にあった屋敷ですが、1657年の明暦の大火で焼失し、この地に移ったのです。

小松屋
柳橋のたもとにある佃煮屋。
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柳橋のあたりは江戸時代中期には花街でした。元々は柳原堤の端になったことから矢之倉橋といわれたとか、橋のたもとに柳の木があったからとかの説が聞かれるようです。
今、柳橋の欄干にはかんざしのレリーフが見受けられました。
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亀清楼の創業は安政元年。森鴎外の「青年」や永井荷風の「牡丹の客」、舟橋聖一の「花の生涯」等、有名な文学作品にも登場する料亭。ランチもあるようです。
国技館に近い場所で古くから横綱審議会が行われていることでも有名なのです。

旧跡両国広小路。
1657年(明暦3年)の大火事後、防災上両国橋が架かり火事の類焼を喰い遂げるべきとのことで火除け地として設けられたのが広小路。今でも広々した空間でした。
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現在の東日本橋にかつて存在した運河で、堀周辺の通称が薬研堀といわれる場所。
薬研堀不動尊は真言宗智山派大本山川崎大師平間寺(川崎大師)の東京別院で目黒不動、目白不動とともに江戸三大不動として知られている所なのです。
境内は都会らしく狭いですが、納の年の市之碑・順天堂発祥の地碑も見られました。
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両国橋。
千住大橋の次に隅田川に架けられた橋。創設は1659年(万時治2年)または1661年(寛文元年)といわれているとか。西の武蔵の国と東の下総国をつなぐ橋なので両国橋としたとのことです。
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橋の途中には土俵の大きさがわかるように描かれていました。
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両国橋の東詰たもとに墨田区立両国橋児童遊園があり、子供用の遊具は見当たらず、立派な『表忠碑』がありました。『表忠碑』は日露戦争で出征され、護国の為に身命を捧げられた方々をお奉りしており、碑の裏面にはこの戦争で戦病死された方たちの名が刻まれていました。
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百獣屋の字をあてたももんじや(ももんじ屋)とは、江戸時代に近郊の農民が鉄砲などで捕獲した猪や鹿を利根川の利用で江戸へ運び、その他では牛肉や馬肉等を売っていた店のこととのこと。
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当時は表向き、肉食忌避だったのでこれらを「薬喰い」と呼んだそうです。猪肉は山鯨(やまくじら)、鹿肉は紅葉(もみじ)と呼んだのは花札の絵柄からとのことでした。
江戸ではこの両国広小路のお店が有名で、獣肉を鍋物や鉄板焼にしたことは今のすき焼きや桜鍋の元とも考えられるそうです。幕末には豚肉(猪肉)食が流行し、これを好んだ15代将軍・徳川慶喜は「豚将軍」「豚一殿」とあだ名で呼ばれたともうかがいました。また、新撰組の人たちは豚肉を常食していたとのことで、このようなことが明治初期の牛鍋の人気につながり、今日の食事文化につながっているようです。

赤穂浪士休息の地。
赤穂四十七士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名。この方はちくま味噌初代竹口作兵衛本浄とは同じ俳人仲間だったとのことです。1702年(元禄15年)12月14日、本所松坂町の吉良邸討入本懐を遂げた後、大石内蔵助率いる義士達が一ツ目通りを引き上げの途中、永代橋へ差し掛ると、この場所が乳熊屋味噌店の上棟の日だったことから作兵衛が一同を店に招き入れ、甘酒粥を振る舞い、労を労ったとのことです。大高源吾は棟木に由来を認め、そして看板を書き残し、泉岳寺へ引き上げて行ったとのことです。
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春日野部屋(かすがのべや)は、日本相撲協会に所属する出羽海一門の相撲部屋。
1925年(大正14年)に引退した出羽海部屋の横綱・栃木山が、引退に伴い自身の養父である行司・木村宗四郎が所有する年寄名跡を継承して年寄・8代春日野を襲名し、当時「分家独立を許さない」という不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許されて春日野部屋を創設したのです。8代春日野は横綱・栃錦などの関取を育て上げたとのことです。
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式守家が春日野部屋のお向かいにありました。
式守家(しきもりけ)は、大相撲の行司家の一つ。式守家の創設は、1767年(明和4年)の番付から名前がのっており、初代式守伊之助が式守姓最初の行司。
今日でも大相撲の行司さんでは式守伊之助、木村庄之助の名前をよく耳にします。

赤穂浪士の討ち入りは大石内蔵助ら表門隊23名が、吉良邸の表門が頑丈だったため、梯子を門の屋根にかけて登り、それから屋敷内に縄梯子を使って降りて門を開けたとのことです。
本所松坂町公園(吉良邸跡)はなまこ壁に囲まれ、裏門跡、正門跡からは、高家筆頭の吉良氏屋敷はかなり広大な屋敷だったことがわかりました。
吉良上野介氏の座像、みしるし洗い井戸、吉良家家臣二十士碑、上野介追慕碑などがありました。
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芥川龍之介文学碑
芥川龍之介は、1892年(明治25年)京橋区入船町生まれ。生後7ヶ月で母が病気になり、本所区小泉町(現両国3丁目)の母の兄、芥川道章に引き取られ、その後13歳の時芥川家の養子となったのです。
芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家。義父の道章は江戸趣味豊かな方だったようです。
龍之介は1898年(明治31年)回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、1899年(明治32年)現両国小学校、現両国高等学校、第一高等学校第一部乙類、東京大国大学英文科と経由して、1916年(大正5年)東大卒業。東大在学中に夏目漱石の門に入り、同人雑誌「新思想」「新小説」に短編を発表し文壇に華やかに登場したのです。
この文学碑は龍之介の代表作の「杜子春」の一節を引用したもの。芥川龍之介の人生感を学び彼の文才を偲ぶということで両国小学校創立百十五周年の記念事業として、1990年(平成2年)に建立とのことです。
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勝海舟生誕の地
勝海舟は、1823年(文政6年)両国公園のここで誕生。にあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。剣術は島田寅之助(豊前中津藩士)に就いて修行。1843年(天保14年)21歳の時、蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事。1850年(嘉永3年)に「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめています。1853年(嘉永6年)米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航した時、海舟は幕府首脳部に独自の海防論を示しこれがきっかけで異国応接掛手附蘭書翻訳御用、講武所砲術師範役、軍艦操練所教授方頭取などの役職に就き活躍が始まっています。そして、1860年(安政7年)には日米修好通称条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断しています。また、帰国後は軍艦操練所頭取や軍艦奉行となっています。1868年(慶応4年)の西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となったのです。1899年(明治32年)に77歳で亡くなりお墓は洗足池畔にあるとのことです。
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両国国技館は、東京都墨田区横網(よこあみ)にある大相撲の興行のための施設。
正式には単に国技館だそうです。また、ボクシングなどの格闘技の試合に使われることもあるとのことです。1985年に建設され現在収容人員は11,098 人とのことでした。
同じ建物の横の入り口に相撲博物館がありました。ここは酒井忠正初代相撲博物館館長が長年にわたって収集した資料を基礎に、国技としての相撲資料の散逸を防ぐため、昭和29年(1954)9月、蔵前国技館の完成と同時に開館したとのことです。昭和60年(1985)1月、両国国技館の開館に伴い移転し、現在の場所になったとのことです。歴代の横砂などの肖像画も見られかなり面白かったです。本日はたまたま開館していましたが見たいときは事前に調べてからお出かけするとよいようです。

回向院(えこういん)は、墨田区本所地域内にあることから「本所回向院」とも呼ばれています。振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれた明暦の大火(1657年(明暦3年))の焼死者10万8千人を将軍の徳川家綱が命じて葬った万人塚が始まりとのこと。その後、安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬されている。
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墓山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉のお墓もありました。ここへの 参拝客のために両国橋が架けられたともいわれているとのことです。
門を入るとすぐに「力塚」がありました。これは1936年(昭和11年)に大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀るために建立されたとのことです。
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旧安田庭園。
江戸時代は、本庄松平氏(常陸笠間藩、のち丹後宮津藩)の下屋敷。元禄年間に本庄宗資により大名庭園として築造され、安政年間には隅田川の水を引いた潮入回遊庭園として整備された。明治に入り、旧岡山藩主池田章政の邸宅となったのです。明治22年(1889年)、安田財閥の祖である安田善次郎が所有することとなった。大正11年(1922年)、には東京市に寄贈されたのですが、1923年の関東大震災によりほとんど旧態を失ったのを東京市が復元し、1927年より市民に解放されたのです。現在は墨田区が管理しているようです。
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1日晴天で22℃、風なし、約1300歩は気楽で心地よかったです。説明の先生が丁寧だったのがまたよかった。でも私のグループ34名、という調子で全部では4グループでしたから曜日?それとも場所?あまりの大人数でびっくりしました。四宮先生、CD青木さんに感謝。今後も楽しみです。
posted by yunofumi at 21:50| あちこちウォーク

2016年10月16日

2016.10.12江戸ぶらり古地図ウォーキング第3回湯島

〜将軍家献上の水・江戸の用水を学ぶ〜
JR御茶ノ水⇒お茶の水石碑⇒杏雲堂病院・大久保彦左衛門屋敷跡⇒法政大学発祥の地碑⇒日本大学病院・甲賀通り⇒小栗上野介ここに生まれる説明板⇒さくら薬局⇒コトブキ調剤薬局⇒日本大学理工学部⇒紫紺館・駿河台道灌道⇒ミズノ東京本社⇒太田姫稲荷神社⇒池田坂・日本大学歯学部⇒日本大学歯学部付属歯科病院⇒日本ハリスト正教会東京復活大聖堂・紅梅坂⇒井上眼科病院⇒聖橋⇒湯島聖堂・孔子像・大成殿⇒本郷通り⇒湯島聖堂前交差点⇒甘酒茶屋天堅屋⇒神田神社・獅子山・銭形平次の碑・国学発祥之地・浮世絵師水野年方顕彰碑・神田神社裏参道⇒妻恋坂交差点⇒鳴門鯛焼本舗⇒三組塚下交差点⇒メトロ湯島駅⇒湯島中坂下交差点⇒中坂(仲坂)⇒鉄二健保会館⇒湯島中坂上交差点⇒湯島神社・新派碑⇒教證寺・柳瀬美仲墓⇒湯島四郵便局⇒旧湯島切通町⇒湯島地方合同庁舎⇒平野屋⇒鱗禅院・春日局墓⇒南山堂ビル⇒旧龍岡町・文京総合体育館⇒龍岡門バス停⇒東京大学本部棟・池之端門⇒東大薬学部創薬機構⇒赤門⇒東大赤門前交差点⇒大山堂書店⇒文光堂書店⇒本郷三丁目交差点⇒かねやす⇒本郷3丁目駅前バス停⇒第一医科梶ヒりそな銀行⇒壱岐坂通り⇒東京都水道歴史館・馬水槽・木樋⇒順天堂大学⇒お茶の水坂⇒元町公園⇒JR水道橋駅

お茶の水石碑
御茶ノ水駅の御茶ノ水橋口交番横にありました。慶長の時代にこの辺りは神田山の麓で高林寺があり、庭から水が湧き出たので将軍秀忠公に差し上げたところ、お茶にはとても良い水と褒められた。そこで毎日この水を差し上げたことからこの辺りをお茶の水というようになったそうです。石碑横には今も水が涌いているようでした。
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杏雲堂病院はがんなどの予防法・診断法・治療法に関する臨床を中心とした調査や研究開発の事業を実施している佐々木研究所が経営している病院で明治15年に設置されたようです。この病院の植え込みに大久保彦左衛門屋敷跡碑がありました。時代劇でお馴染みの天下のご意見番の大久保彦左衛門です。徳川家康の家臣として関ヶ原の戦いで活躍し、徳川秀忠、家光にも仕えたそうです。
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しばらく行くと千代田区が設置した「小栗上野介ここに生まれる」の説明板がありました。
どうやら正しくは小栗上野介忠順(1827〜1868)。もともとは幕臣で勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行などを務めたとのこと。安政7年(1860年)には日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国し、江戸幕府の財政再建、洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行ったとのこと。しかし人生最後は混乱期と重なり悲惨な最後となったようです。

太田姫稲荷神社
太田姫は太田道灌の娘。娘が重度の疱瘡にかかり一口稲荷の故事に「ならって祈願したところ回復したので社を立てたのが始まり。元々は江戸城内に、その後聖橋のそばに、そして今の所に移ったようです。江戸時代の将軍が崇敬したことあるからでしょうか、小さいながら立派な社殿でした。
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日本ハリスト正教会東京復活大聖堂・紅梅坂⇒井上眼科病院⇒聖橋⇒湯島聖堂・孔子像・大成殿⇒本郷通り⇒湯島聖堂前交差点⇒甘酒茶屋天堅屋は先日伺ったばかりなのでここでは省略。
神田神社は表にある社殿などはお馴染み。今日は周囲もよく解説していただきました。
銭形平次の碑、国学発祥之地、浮世絵師水野年方顕彰碑を見てはじめて神田神社裏参道から出ました。
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湯島神社は梅の名所。菅原道真の霊を祭る北野天満宮が元で広がった神社。学問の神様ということでいつも訪れる方が多いようです。

教證寺は、徳川忠長に嫁いだ教證院殿(長姫)が、その子息久遠寿院殿(後の東叡山寛永寺二世)に従って、上野下の当地に教證院と号して起立したのです。
教證院殿の二十五回忌の寛文7年(1667)教證寺と改めたといわれています。
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境内に柳瀬美仲墓があるということで見せていただきました。
柳瀬美仲(1685-1740)は徳川時代中期、宝永2年遠江国浜松に生まれた歌人。
「はつせ路や 初音聞かまく尋ねても まだこもりくの山ほととぎす」の一首により有名になったようです。元文5年5月56歳で没し、墓石は「隠口先生美仲甫之墓」とあるとのことでしたが素人目には判別はむつかしかったです。 

麟祥院(りんしょういん)は1624年(寛永元年)に春日局の願いによって二代将軍秀忠が建立させた寺。初めは報恩山天沢寺でしたが、寛永11年、三代将軍家光の命により麟祥院と改称して天沢山と号することになります。春日局は1604年(慶長9年)に家光の乳母となり、家光の将軍就任に並々ならぬ尽力をして方です。
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春日局墓石と台石の四方に丸い穴があいていました。これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉(よみ)から見通せる墓を作ってほしい」という春日局の遺言によると伝わっているとのことです。  
ちなみに文京区の「春日」の地名は。春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来しており、昔は春日殿町と呼ばれていたとのことでした。

かねやすは現在、雑貨屋さん。
享保年間(1716〜1736)にはこの本郷3丁目の交差点角に、兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出したのが大当たりでお店は大繁盛。
その後の1730年(享保15年)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守がここを境に南側を耐火のために土蔵造りや塗屋にすることを命じたとのこと。
ところが北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれたのでも有名なのです。
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東京都水道歴史館は江戸時代から現在までの400年、近現代の水道、江戸時代の上水、をきちんと学べる施設。水に関する学習施設ということでしたがもったいないくらい立派でした。またゆっくり来てみるようです。
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新宿駅にある馬水槽と同じのがあり、解説つきでよくわかりましした。
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本日のウォーキングは初めての阪急交通社トラピックスの日帰りツアー。各社のウォーキングツアー催行の情報を耳にし、現在あちらこちらと、ちょっと気ままに研究しているのです。
たまたまこのツアーを見つけ、参加するのに日程調整をしたところいきなり3回目だったのは致し方なし、なのです。
ガイディングレシーバー付きで講師説明があり、記録帳・缶バッジとお弁当付きで安価なのはちょっとよかった。
1日晴天で24℃、風なし、約15000歩は気持ちよかったです。ということでこのシリーズに継続的に参加しようと思いました。
ウォーキング終了、水道橋駅14:40頃に総武線乗車、市ヶ谷から川越行きの有楽町線に乗り替え、いつものように車中でコックリと舟をこぎながら帰宅。その後夕方のニュースを見てビックリ!東京都内大規模停電!
埼玉県新座市野火止の洞道に敷設されている東電の送電ケーブルから出火、58万軒に影響、列車ももちろん各線が止まったとのこと。私の帰宅は水道橋から約1時間ですから途中で止まらなかったことが不思議。たまたま幸運だったのですね、ありがたいことでした。感謝!!
posted by yunofumi at 23:13| あちこちウォーク

2016年10月14日

2016.10.10 旧中山道を行く 第8回上尾宿

大宮駅〜上尾駅
JR大宮駅⇒高島屋デパート・紀州藩鷲場本陣跡⇒すずらん通り・旅籠長次郎・臼倉本陣跡⇒メガネのヨコタ・栗原脇本陣跡⇒イワイビル・山崎本陣跡⇒大栄橋⇒宮町大栄会・御影堂⇒JA共済埼玉ビル⇒土手の椎の木⇒埼玉日本語学校⇒官幣大社の石柱⇒土手町地下道⇒北大宮住宅⇒大宮警察署入口交差点⇒東大成葬祭センター⇒大宮郵便局⇒藤和銀行⇒安政7年の道しるべ⇒八百姫大明神そば⇒くらづくり本舗⇒富士フィルム大宮事務所入口バス停⇒大成屋菓子舗⇒石上神社⇒馬頭観音.三界萬霊塔⇒東埼玉マイネッツさいたま北⇒喜多山製菓⇒さいたま市水道総合センター⇒大宮警察署加茂宮交番⇒北区役所入口交差点⇒北区役所・大宮競馬場建設記念碑⇒東大成の庚申塔⇒宮原1丁目バス停⇒武久金物⇒仲屋前バス停⇒サイゼリア⇒橋供養塔⇒埼玉りそな銀行宮原支店⇒宮原駅入口交差点⇒鮨・豆腐料理おがわ(昼食)⇒武蔵野銀行⇒大宮宮原郵便局⇒天神社⇒加茂神社⇒宮原小学校・センダンの木⇒神山商店⇒うなぎ清水家⇒徳樹庵⇒南方神社⇒河村屋・漬物カフェ〜これより上尾宿〜庚申塔・栄町1丁目⇒今村整形外科病院⇒下上尾バス停⇒上尾運動公園バス停⇒ヤマダデンキ⇒上尾陸橋⇒愛宕神社⇒上尾原市新道バス停・川越道⇒鍾馗羊羹・井上脇本陣⇒藤村病院・林本陣跡⇒白石脇本陣⇒氷川鍬神社・聖徳太子像・富士塚⇒ベルーナアネックスビル⇒うなぎ恵比寿亭⇒遍照院⇒JR上尾駅

大宮宿は氷川神社の門前町、明治時代には鉄道が通ったこと、縄文時代の遺跡があるという古い街。宿場としては南北約5.5km、東西約3.7km、本陣1軒、脇本陣9軒、問屋場4軒。旅籠25軒で大いに栄えたのです。

紀州藩鷲場本陣跡は高島屋デパートの辺りとのこと。1776年(安永4年)の大火事で近辺85軒が類焼しました。
また高島屋デパート屋上には北沢家から出た近代漫画家の先駆者北沢楽天を祭った北沢稲荷がありました。
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御影堂(栗原堂)は甲州武田の家臣だった栗原内記保逢が建てたお堂。栗原脇本陣と松本右衛門一族の墓があるとのことです。
土手の椎の木のそばを大名行列が通ったようです。大正時代には木の下で桶屋などが商売をしたり、旅芸人の芸がされたりと賑わったようです。
官幣大社の石柱は氷川神社の裏参道入口にありました。こちら側から初めてみました。
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少し行くと1860年(安政7年)に建立の石碑は「大山・御嶽山・よの・引また・かわ越」とあり道しるべでした。

石上神社(いそのかみじんじゃ)は疱瘡の神様として信仰されたようです。疱瘡は伝染病ですからとても人々は恐れたのです。
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しばらく行くと橋供養塔があり、昔この辺りに橋があったことを示しています。建立は1759年(宝暦9年)ということでした。

創建は京都の上賀茂神社を勧請したのがこの加茂神社。ここの地名は宮原。加茂宮村と吉野原から一字づつとった名前。村の鎮守様なのです。
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宮原小学校の正門横にセンダンの木がありました。明治初年宮原小学校開校時に赴任した先生が郷里の高知から移植した木で校歌にも歌われているとのことです。

南方神社(みなかたじんじゃ)はお諏訪様と親しまれており、吉野原村の鎮守様です。
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河村屋は江戸時代文化文政期の創業。酒粕を使った漬物を創作し、今はさいたま市の伝統産業です。
店舗の建物は新しく、お隣にある少し古い感じの建物は漬物カフェとなっていました。
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上尾宿は交通の要として栄えた宿場。宿場の街並みは南北に約1.1km、次の桶川宿まで3.7km、本陣1軒、脇本陣3軒、問屋場1軒、旅籠41軒。中山道にクロスする脇道が原市・岩槻・蓮田・菖蒲・騎西・秋葉・平方・川越に通じていたのです。

愛宕神社はもともと東町にあったようです。この辺りで遊びに来ていた川越藩士と飯盛り女が別れを惜しんだというさよなら横丁もあったそうです。
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3軒あった脇本陣のひとつが井上脇本陣。昔の屋根瓦が入口の塀にオブジェのように飾られていました。お隣は鍾馗羊羹でした。
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お隣の藤村病院は昔は林本陣だった跡。現在の病院駐車場の端に赤い鳥居の稲荷神社が残っているのが少し見えました。

氷川鍬神社(ひかわくわじんじゃ)は上尾宿の総鎮守様。小鍬が御神体ということで五穀豊穣をを司る農耕神がご祭神。明治時代に氷川女体社と合祀され現在の名前となったようです。
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聖徳太子像碑と富士塚もありました。

遍照院(へんじょういん)の開山は、1394年(室町時代の応永元年)。
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御本尊は大聖不動明王。罪深い衆生のために怒りの姿に化身して救道するということで、諸願を成就し、災害を除き、財宝をえしめる仏様として厚く信仰されているとのことでした。
本堂に上がらせていただき、ご本尊の不動明王像や十一面千手観音菩薩を間近で見せていただけたのが大感激でした。
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また境内を入るとすぐに孝女お玉の墓がありました。
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お玉は越後の貧しい家に生まれ、親の生活を楽にしようと11歳で上尾宿の大村楼に身売りしたのです。生まれつきの美貌と賢さでたいへん評判になり、病で20歳の時なくなったのです。大村楼の主人が、お玉の孝行心に心を打たれ、手厚く葬ったということのようです。

本日は朝日旅行の第8回目の旧中山道を歩くに21名が参加。ガイドは浦和ガイド会の2名。
曇天で気温は低く、21℃はありがたかったです。しかしパンフに歩程9kmとあったのですが自分の万歩計は2万歩越えでしたから、ややお疲れという次第です。どうやら自分の限界もわかってきた今日この頃なのです。
posted by yunofumi at 21:26| あちこちウォーク

2016年10月09日

2016.10.4 第3回東京の新発見旅「葛飾区」

JR金町駅改札口⇒金町駅前団地⇒朝日信用金庫・金町しょうぶ通り商店会⇒昌明通り商店街⇒金蓮院⇒東金町4丁目バス停⇒かなまち会館⇒東水元2丁目バス停・岩月街道⇒南蔵院・しばられ地蔵⇒水元公園・水元大橋・バードサンクチュア・金魚展示飼育地⇒葛西神社前信号⇒江戸川河川敷・柴又公園・矢切の渡し・金町浄水場・とんがり帽子の取水塔⇒葛西神社⇒ルンビニ幼稚園⇒題教寺柴又帝釈天・庭園・参道・船橋屋(昼食)⇒寅さん記念館・京成柴又駅

真言宗豊山派の金蓮院は、正式には法護山金剛寺、1504〜20年(永正年間)に賢秀和尚により創建とのこと。1591年(天正19年)徳川家から10石の御朱印を拝領しており、水戸徳川家の祈願所でもあるのです。
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南蔵院は正式には業平山東泉寺南蔵院。約600年前に林能胞子が開創。開創当時は在原業平東下りの縁地墨堤の畔にり寛永年間に、そして大正12年関東大震災にあったことから昭和4年に現在の水元に移転したとのことでした。
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しばられ地蔵。
享保年間将軍吉宗の時代に南蔵院門前で起きた反物を盗んだ事件を解決するために大岡越前が「犯人は南蔵院の門前で泥棒の仕業を黙ってみていた地蔵はけしからん」と地蔵を縄で縛り南町奉行所へ連行。奉行所になだれ込んだ野次馬に罰として反物を差し出すように申し渡したのです。そしてその中に盗まれた反物があり「犯人逮捕!」。ということで越前守が地蔵に感謝しお堂を建立、縄を解き供養したのが始まり。ということで今では「しばられ地蔵」は盗難除け、厄除け、縁結びなどの願い事のために縛り、願いが叶うと縄解きをするのです。
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水元公園は葛飾区にあり、東京23区中でも最大規模の面積(92.2ha)とのこと。 公園そばには公園の名前が町名にもなっていました。
小合溜に沿って造られた、都内で唯一水郷の景観をもった公園です。
まず小合溜とは、で調べてみると「小鮎」の名前で歴史に登場、その後は小合(こあい)と称せられたとのこと。そして、「溜井」とは、河道を利用した貯水施設のことで、小合溜井(こあいためい)が本当の名前ということでした。
昭和50年まで、このあたりは都立江戸川水郷自然公園で、 小合溜から引いた大小の水路が園内を走り、水郷景観を作りだしていました。広い園内はポプラ並木やメタセコイアの森・ハンノキなど水辺に強い樹木、ハナショウブ・スイレン・コウホネなど水生植物を多く見ることができるとのことです。
水元大橋を渡りながら小合溜を眺めました。
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自然の森や水辺があるので鳥も多いようです。園内には3か所の鳥たちを観察できるバードサンクチュアがあるとのことです。
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生きている化石といわれるメタセコイアが1800本で大きな森となっていました。
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そのほかかなしょうぶ園、ポプラ並木、彗星植物園、様々な広場があり一日中、また季節ごとで楽しめそうな公園でした。

金魚展示飼育地。
水元公園の端にありました。
ここではリュウキン、ワキン等の優秀な観魚を作り、江戸時代から続いてる伝統的な地場産業として金魚養殖振興に役立てているとのことです。我が国で古くから飼育されている金魚や珍しい中国産金魚を展示、また品種改良や品質保持の試験研究を行っているとのことでした。
各池には江戸茜、琉金、コメット、珍珠鱗、などどれも初めてでしたが一番は、金魚ではなく銀魚が印象深かったです。
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柴又公園
江戸川河川敷の広場はレクリエーション・スポーツの場として利用されており柴又公園となっていました。またこの公園は、日本庭園のある山本亭や寅さん記念館を含み、葛飾区の観光名所の一つとのことです。
矢切の渡しは柴又と対岸の千葉県を結ぶ渡し船で江戸時代初期から続く、都内に唯一残る貴重な渡し場です。小説や歌謡曲にも登場し、現在は片道200円で乗船することができるとのことでした。

金町浄水場は1926年8月に竣工。原水は江戸川の表流水を導入した。水系上流の水質悪化や、取水口の上流の対岸に千葉県松戸市の下水処理場の排水口があった影響で、低品質水道水だったのです。特に昭和40年代はカビ臭がひどく、活性炭処理が間に合わず、高速沈でん池にスカム(水中の有機物が腐敗し、この時に発生するガスによって浮上した有機物の「かす」)が発生する事態まで発生し、1984年には厚生省が発足させた「おいしい水研究会」に「日本一まずい水道水」と指摘されている。そこで東京都水道局は、1992年にオゾンによる高度浄水処理を開始し、また高度浄水処理施設(オゾン処理)の完成で水系上流の下水処理能力が向上したのです。今、この高度浄水処理された水道水は、残留塩素を除去し、ボトルウォーター『東京水』として、東京都庁舎をはじめ東京都の施設等で市販されています。

とんがり帽子の取水塔はフーテンの寅さん(映画「男はつらいよ」)の中に結構な頻度で登場するとのこと。二つの塔はともにレンガ作りですが少しデザインが違うようです。近頃の剣突物などは機能とコストパーフォーマンスだけを重視ですから昔は優雅でした。
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葛西神社(かさいじんじゃ)は、創建は平安時代末期、1185年(元暦2年)とのこと。昔は上葛西、下葛西合わせて三十三郷の総鎮守として葛西三郎清重公の信仰により 香取神宮の分霊を祀ったのが始まり。(現在の東京都葛飾区、江戸川区の全部と墨田区、江東区、足立区の一部地域)
その後この香取宮が明治8年に郷社となり、第二次世界大戦後は全国神社の社格が廃止され、宗教法人葛西神社となったのです。ということで、金町、東金町を合わせた11町会の総氏神様。祭囃子発祥の神社でもあるのです。
また、葛西神社は祭囃子発祥の地と言われているとのことでした。
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題教寺柴又帝釈天の開創は390年ほど前の寛永年間に禅那院日忠上人。またその昔から日蓮聖人の親刻の帝釈天の板本尊があるとのことだったのが見つかっていなかったのが240年前の本堂修理で発見されたのです。こうして仏法守護神としての帝釈天信仰がはじまったようで今も参拝の人々が引きも切らない感じでした。

帝釈堂の内外には、数多くの木彫がほどこされています。特に帝釈堂内陣の外側にある10枚の胴羽目彫刻は仏教経典の中でも最も有名な「法華経」の説話を選び出して彫刻したものとのこと。 この法華経説話彫刻は、当山第十六世観明院日済上人の発願になるもので、篤信者鈴木源次朗氏の丹精協力を得て、大正末期より昭和9年に至る十数年の歳月を費して完成したのです。本日見ましたところガラス張りの彫刻ギャラリーになっていました。
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参道は相変わらず賑わっておりました。参道の中ほどの船橋屋でニュー麺の昼食をいただきました。
本日は時間がなく題教寺柴又帝釈天の庭園、寅さん記念館、山本亭、山田洋次ミュージアムは見られませんでした。
ということで京成柴又駅前の寅さんを見て帰宅しました。
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本日の葛飾区めぐりは幾度も伺っていたのですが本日参加者13名は江戸川べりを歩いたので暑さのせいでやや疲れていました。私も御多分に漏れず、ここ数日涼しい日が続いた後の晴天、32℃、18000歩はちょっとね!という気分でした。でもウォーキングには晴れが一番ですから、今次自摸感謝、感謝で終了!!
posted by yunofumi at 00:59| あちこちウォーク

2016年10月03日

2016.9.30 ノルディックウォーキングイベント

先日の9/10に参加したノルディックウォークと同じアウトドアフィットネスTOKYO EAST PARKのイベントに参加。
今回は都営新宿線住吉駅そばの猿江恩賜公園での開催。
インストラクターは女性の平良さんで小麦色のお肌がとても素敵な方でした。
本日の参加はこの公園の近くにお住いの2名と私。
猿江恩賜公園は都営の公園で素晴らしい環境。大きな道路の両サイドにあったのが印象的。
前回のイベントは都営地下鉄新宿線東大島(ひがしおじま)駅でしたが本日はその3つ手前。公園内には金木犀の香りがいっぱいでとてもよかったです。
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公園のサービスセンター
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公園内約3kmのノルディックウォークでしたが今日は久しぶりに30℃くらいあったようなので途中で休憩もしました。
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公園内には大きな池があり蓮には花がついていました。
そしてなんとここはスカイツリーのビューポイントとのこと。
初めてでしたがとても良い写真ができました。
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園内には様々な花が見られましたがバラはやはり見ごたえがありました。
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約1時間のノルディックウォーキングでしたがしっかり気持ちの良い汗もかき、適度の運動になりました。
青空が一杯に広がり、公園内の風景もまぶしいくらいに素晴らしいこと、ロッカーやシャワーもあり、何かとうれしい環境でした。
また参加したいと思いました。
posted by yunofumi at 00:01| ドタバタ日記

2016年10月02日

2016.9.23 飛騨高山・白川郷と立山黒部アルペンルート旅行2日目

ANAクラウンプラザホテル富山→富山城・富山国際会議場→松川富山市役所→JR富山駅→電鉄富山駅--電車・富山地方電鉄・立山線60分--立山駅--立山ケーブルカー7分--美女平--立山高原バス50分--室堂--立山トンネルバス10分--大観峰--立山ロープウエイ7分--黒部平--ケーブルカー5分--黒部湖・黒部ダム(徒歩)--トロリーバス16分--扇沢⇒安曇野⇒JR川越駅

今にも振り出しそうな朝ですがまずはホテルより徒歩にて電鉄富山駅に向かう。
ホテル前には富山城がありましたが本日は雄姿を見るのみで残念。
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富山電鉄の始発駅だったので席にゆったりと腰掛け、34kmを60分で標高457mの立山駅に到着。
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立山駅からは立山ケーブルカーで1.3kmを7分で標高977mの美女平に上る。
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美女平からは立山高原バスで23kmを50分で標高2450mの室堂に上る。
室堂は人でごった返しており、やっと待合室でお弁当を広げました。
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撮影スッポットが準備されておりそこでパチリ
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駅舎の屋上から荒々しい山肌が見られました。
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室堂からは高さが3015mの立山の中腹あたりを刳り貫いたトンネル3.7kmを10分かかって立山トンネルバスで標高2316mの大観峰まで下る。
次に、大観峰から立山ロープウエイで1.7kmを7分で標高1828mの黒部平に下る。
そして黒部平から黒部ケーブルカーで0.8kmを5分で標高1455mの黒部湖に下る。
黒部湖駅から徒歩にて黒部ダムに向かいダムを横断して黒部ダム駅までは約600m。
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観光放水の雄大な景色を見ました。
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気温14℃を下回っている黒部ダム駅からトロリーバスで6.1kmを16分で標高1433mの扇沢まで下る。
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これにて昨日往路で使ったバスに迎えられ黒部湖・黒四ダムにさよなら。
これで今回の旅行行程は終了し、後はバスで約4時間かけて川越に到着。
この2日間は曇天、山間には雲やガスが立ち込めていました。でも秋は十分感じられました。帰路では渋滞もなく順調に過ごせ、無事帰宅できてよかったです。飛騨高山、白川郷、黒四ダムと長年訪れたいところでしたので、かなり満足しました。また機会を見つけてこれらを一か所づつ、ゆっくり訪れる旅をしたいと思っております。
posted by yunofumi at 00:01| ドタバタ日記

2016年10月01日

2016.9.22 飛騨高山・白川郷と立山黒部アルペンルート旅行1日目

JR川越駅⇒平尾山公園⇒月の里おばすて⇒平湯⇒飛騨高山⇒白川郷⇒ANAクラウンプラザホテル富山

飛騨高山散策は小一時間だったのでほんの一部だけ見られました。

高山市政記念館の建物は1895年(明治28年)から1968年(昭和43年)まで高山町役場(昭和11年11月からは市役所)として使用されていた建物。「旧高山町役場 附棟札及び新築関係書類」として高山市指定文化財となっているとのことです。中に入ると南北ふたつの土蔵で構成された和洋折衷の2階建て、間口21.88m、奥行11.8mの総檜造り)でとても立派。高山で最初のガラス窓もありました。
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中橋は宮川に架かる橋で本町1丁目と上三之町を結ぶ朱塗りの橋。
擬宝珠や欄干もあり、全体が朱色。春の高山祭で屋台が中橋を通る姿の写真が有名とのことでした。
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伝統的建築物の街並。
上三之町の古い町並みあたりには、出格子のある軒下や用水路、杉の葉を玉にした『酒ばやし』が下がっており古い造り酒屋、町家の大戸や、老舗の暖簾が見えました。
残念ながら午後の時間に到着したので朝市、下二之町など多くの施設を見られませんでした。
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日枝神社御旅所。
日枝神社は1141年(永治元年)、飛騨国国司で三仏寺城(現在の高山市三福寺町に存在した飛騨国最古の城)城主であった飛騨守平時輔が、近江国日吉神社を勧請して、三仏寺城の近くに創建したもの。4月のお祭り時に山車が立ち寄る御旅所 が高山陣屋前にありました。
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高山陣屋。
八軒町にあり、江戸幕府が飛騨国を直轄領として管理するために設置した代官所・飛騨郡代役所だった所で現存するには全国で唯一の存在。明治維新までの177年25代の代官・郡代が政務を行っていたとのこと。表門はじめ幾つかの蔵など丁寧に建築物、備品が陳列されていました。
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山岡鉄舟像が高山陣屋傍にありました。
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山岡鉄舟の本名は高歩(たかゆき)、通称は鉄太郎。幕末の幕臣、明治時代の政治家。禅に通じ、剣を極め、書を能くしたとのこと。
1845年(弘化2年)、飛騨郡代として着任した父小野朝右衛門、母磯について高山陣屋へ入ったのです。
書は高山の書家岩佐一亭に指導され、15歳で弘法大師流入木道の伝統を継承。剣は江戸から招請した北辰一刀流の井上清虎に学び、一刀流正伝を継ぎ、無刀流の一派を開いています。
禅は13歳より、国・漢学・絵画等も高山在住時代の約8年間に学び、人間形成の礎は飛騨の風土の中で培われたもののようです。
陣屋の松をみて「降る雪と力くらべや松の枝」と詠んだのが有名とのこと。
父母の死後江戸へ帰り、のち山岡家の養子に。勝海舟や義兄の高橋泥舟等と共に幕臣として活躍。維新後は明治天皇の侍従もつとめ、1888年(明治21年)病にて53歳に死去し東京谷中の全生庵に葬られています。父母の墓は高山市東山宗猷寺にあるとのことです。

白川郷(しらかわごう)は、岐阜県内の庄川流域の呼称。
本来は大野郡白川村と高山市荘川町(旧荘川村)および高山市清見町(旧清見村)の一部に相当し、白川村を「下白川郷」、他を「上白川郷」と呼ぶとのことですが今日では白川村のみを指すことが多いようです。
白川郷の荻町地区は合掌造りの集落で知られてり、1976年重要伝統的建造物群保存地区と選定。1995年には五箇山(相倉地区、菅沼地区)と共に白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたのです。白川郷の萩町地区は、今も実生活の場として使われているのが他地域の合掌民家集落と違うのです。
「世界遺産白川郷合掌造り保存財団」などがその保存にあたり、毎年2月頃の週末に行われる夜間ライトアップが知られています。
今日はせせらぎ公園駐車場に入り散策は1時間だったので、野外博物館としての合掌造り民家園を見ました。

中野葭森家.
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であい橋は庄川に架かっており、全長107m、床版が宙に浮いている部分の長さ実測100mとされ1993年に完成。民家園のある地域と荻町の正に生活している合掌造り集落をつないでいます。観光客はこのであい橋を渡って白川郷の集落へアクセスができます。
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であい橋は吊床板形式で、両岸からPCケーブルを引っ張って橋を固定しているので中央付近は吊り下がった状態となり、橋がゆるやかなUの字を描いています。
きっとあい橋の周辺は雪景色が素敵でしょうね。

今日はこれにて観光を終了し、ホテルへ直行。おいしい食事をいただき、バタングーでおやすみなさい!!
posted by yunofumi at 17:20| ドタバタ日記