2019年07月15日

2019.7.12 市民大学ふじみ野 大人の社会見学 上下水道見学バスツアー

本日は埼玉県の施設、上下水道の施設見学です。

ふじみ野市立大井総合福祉センター⇒埼玉県大久保淨水場⇒下水道公社荒川右岸支社
⇒ ふじみ野市立大井総合福祉センター

埼玉県が行う水道用水供給事業は昭和39年に荒川、利根川水系を水源として当時、人口急増地域を給水区域とする事業に着手して昭和43年にこちらの大久保淨水場からの給水が開始したのがはじまりだとのことです。ここでは私達の町に送り出す県水が作られているのです。ちなみに前回の1回目の見学は地元に来た県水を如何に市町村で各家庭に届けているかを見たわけです。
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今は1日最大給水量130万㎥の国内でも最大級の浄水場だそうです。
こちらの水源は利根川水系では下保ダム、埼玉合口二期、八ツ場ダム、荒川水系では有間ダム、浦山ダム、荒川調整池、滝沢ダム、合角ダムだそうです。
会議室では大きなパネルが設置してあり、この浄水場の規模の概要を説明いただきました。
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取水からの流れは以下の通り。
取水口⇒沈砂池⇒着水井⇒急速攪拌池⇒フロック形成池⇒沈殿池⇒急速濾過池⇒浄水池⇒送水ポンプで供給先の市町村へ

沈殿池の内部の説明模型。
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濁った水に薬品を加えたら攪拌で徐々にフロックができて上澄みはきれいになってきました。
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前庭に飾ってあった送水管の色々。びっくりするほど大きいのがありました。
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次は下水を綺麗にしている下水道公社荒川右岸支社「新河岸川水循環センターの見学です。
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初めに講義を伺い、それから施設見学でした。
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私たちが1日に使う水の量は約218L。使われ方は風呂の水が最も多く次はトイレ、炊事、洗濯などです。
そうそう、下水が流れるのは汚水管と雨水管があること。汚水管は汚水を下水処理施設へ送り、雨水管は巷に降った雨水を集めて直接河川に放流するのです。
各家庭から使われた水は下水管を通って水循環センターに運ばれおよそ半日できれいな水になって川や海に放流されるとのことです。
主としての水部分は下水管⇒中継ポンプ場⇒沈殿池⇒揚水ポンプ⇒最初沈殿池⇒反応タンク⇒最終沈殿池⇒消毒槽⇒川や海へ。

下水の汚泥は最初沈殿池から取り出されて汚泥処理施設に行き、別処理とのことです。
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最初沈殿池の中はまだかなり汚い水でしたが匂いはそんなに強烈ではありませんでした。
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反応タンクでは空気を微生物に与え汚れを食べさせ塊としていました。
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その後は最終沈殿池で汚れ沈殿させ上澄みはかなり綺麗でした。
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この後は消毒して放流とのことでした。

埼玉県の下水道管は438km、すなわちこれは埼玉県庁から神戸市までの距離。また下水は自然に流していますが途中で中継ポンプ場で汲み上げまた流れていくのを利用しているとのこと。ということで中継ポンプ場は県内22カ所で直径約1.7mのポンプでくみ上げているようでした。このことは県内には9処理施設があり1日下水処理量は190万㎥、50mプール約750杯分、埼玉県内人口の約8割、約590万人の下水を処理していると教わりました。いやはやなかなか強烈な見学会で何も知らずに日々暮らしていられることにあらためて感謝。
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また県内にはマンホールは2311基あるそうでカラフルなマンホールカードがあるとのことで近頃このカード集めも人気があるとのことでした。
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見学を終わって感じたことは埼玉県っていい所!と改めて実感。数十年前たまたまふじみ野市の中古住宅購入をきっかけに埼玉県で居住を開始。子供もこの地で成長し、お陰様で一人前になりました。この先は老いに向かっている私ですが最後まできっとこの地で過ごすことでしょう。皆様、お世話になります。
posted by yunofumi at 10:22| ドタバタ日記

2019年07月13日

2019.7.11 2巡目第5回東京の新発見旅「新宿区」

梅雨明けはまだの時期ですが今日も街歩きに参加です。参加者22名、講師は若さハツラツ渡辺先生、TD反保さんと共に出発。空模様はまさに曇天、無風で21℃。ウォーキングにはまずまずの日和と思いつつ10:00出発。

副都心線西早稲田駅⇒新宿コズミックセンター前⇒新宿区立戸山シニア活動館⇒戸山公園・箱根山⇒放生寺⇒穴八幡神社⇒木組み博物館⇒ワセダグランド商店会⇒高田馬場跡・八幡鮨⇒堀部安兵衛之碑⇒早稲田大学・坪内博士記念演劇博物館・会津八一記念博物館・大隈講堂⇒トラード早稲田⇒川田米店⇒天祖神社⇒鶴巻南公園⇒宗参寺⇒漱石山房記念館・漱石公園⇒大願寺⇒矢来公園・・杉田玄白生誕地之碑⇒矢来能楽堂⇒牛込北町信号⇒牛込中央通り商店会・細工町⇒リストランテ・カルミネ(昼食)⇒宮城道雄記念館⇒袋町⇒神楽坂加賀⇒善国寺⇒筑土八幡神社⇒新小川町⇒中之橋⇒凸版印刷梶E印刷博物館⇒有楽町線飯田橋

戸山公園は東京都立公園。敷地は明治通りを挟んで、大久保地区(西側)と箱根山地区(東側)に分かれています。地名としては、戸山二丁目・三丁目と大久保三丁目にまたがっている広大な公園です。もともとは、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷で、2代藩主徳川光友により、回遊式庭園として整備され、敷地内には箱根山に、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられています。寛政年間には11代将軍徳川家斉の訪問を受けるなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園だったようです。明治維新後、明治政府に渡り、跡地に1873年(明治6年)に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用されたとのことです。戦後、軍事施設はすべて廃止され、1949年(昭和24年)、跡地に戸山ハイツの建設が開始され、1954年(昭和29年)には敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園したのでした。

箱根山は江戸時代に作られた築山で標高44.6mと山手線内では一番高い山なので戸山公園サービスセンターから登頂証明書をいただきました。
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穴八幡神社(あなはちまんじんじゃ)は蟲封じのほか、商売繁盛や出世、開運に利益があるとされている神社で旧称は高田八幡宮。社伝では1062年(康平5年)、源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったというのがはじまり。 その後1636年(寛永13年)、ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神としたのです。1641年(寛永18年)、宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」というようになったのです。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としたとの話もあります。 歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納し、これより流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、竹千代君(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が行われたのです。
境内入り口には高田馬場流鏑馬像があります。
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木組み博物館は館長の谷川一雄さんが約40年間、数寄屋や社寺建築などの日本伝統木造建築の施工管理に携わってきた中で、伝統工法で建てようとする人の減少、作り手の後継者がいない、材料が枯渇してきているなど日本の伝統木造建築の文化継承を模索し、多くの方の支援でできた博物館だとのことです。展示は通り一遍ということではなく、日本の伝統木造建築の技術を伝える博物館展示型、体験型、参画型へ、そして木組みと共に左官、漆などの伝統技術や素材、道具も紹介していました。
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木の香りは心に癒しを与えてくれる空間でした。
              
堀部安兵衛之碑。
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堀部安兵衛は赤穂浪士で最強の剣豪。子供のころから親との縁が薄く一人で生き抜いてきた方のようですが例の赤穂浪士の一員だった堀部金丸との縁で自身も赤穂浪士となったようです。その後、例の松の廊下の事件があり吉良氏仇討ちに加勢したのです。

早稲田大学の坪内博士記念演劇博物館。
通称エンパクというそうで、1928年(昭和3年)に設立。坪内逍遙が開館式で「よき演劇をつくり出すには、内外古今の劇に関する資料を蒐集し、整理し、これを比較研究することによって基礎をつくる必要がある」と述べたと伝わっているようです。その志を受け継ぎ、今日に至るまで古今東西の貴重な資料を収集・保管・展示しており、収蔵品は百万点を超え、アジアで唯一の、そして世界でも有数の演劇専門総合博物館として、演劇関係者、愛好家、研究者にとても愛され、支えられてきたとのことです。
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坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)は小説家、評論家、翻訳家、劇作家で長く早大の教授もされていたようです。演劇博物館は坪内逍遙の発案で、エリザベス朝時代、16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計されたと伺いました。私はこれまで数回、早大に伺っていますがどうしたことか一度も開館日に巡り合っていません。ということで本日も工事中!!残念でした。

会津八一記念博物館。
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東洋の古美術に関心が高かった会津八一が蒐集した品を中心に多くの収蔵品がありました。中国の秦漢時代の建築や墓室を飾った瓦当・画像塼54点、後漢〜唐時代の墓に副葬された武人・侍女・馬などの陶俑や、竈や井戸を模した明器395点、多様な図案や銘文を背面にあしらった銅鏡208点、金石資料の拓本532点などが挙げられるようです。展示の中では伺うたびにうっとり見とれるのは横山大観の「明暗」です。本日も見ることができて幸せでした。

大隈講堂(おおくまこうどう)は、早稲田大学早稲田キャンパスにあるチューダー・ゴシック様式の講堂。すぐ傍にある大隈重信像と並び早稲田大学を象徴する建築物です。
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ドラード早稲田は鶴巻町の有名デザイナー『梵寿綱(ボンジュコウ』建築のデザイナーズ分譲賃貸マンション。 早稲田エリアでは一際目立つこの建物、オートロック完備でとても人気のある物件だそうです。
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宗参寺は、1543年(天文12年)に没した牛込重行(法号:宗参)の墓所を、息子の牛込勝行が造ったことがはじまりとのことでした。
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牛込氏は、元は上野国(現在の群馬県)の領主で、室町時代に北条氏の家臣となって現在の牛込地域を領した。その後、徳川家康に仕えて幕末まで旗本だったそうです。 門扉にも紋所がくっきりでした。

漱石山房記念館は漱石が暮らし、執筆した空間を可視化するために記念館内に書斎・客間・ベランダ式回廊など「漱石山房」の一部を再現しています。文学館として初の本格的漱石記念館としての役割を果たすべく通常展のほか、特別展や講座・イベントを開催して漱石やその文学の世界を紹介していました。気軽に利用できるように明るい空間でした。
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ということでカフェで有名な銀座の「空也もなかセット」をいただき元気回復です。
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記念館の隣。漱石公園のあたりは、1907年(明治40年)〜1916年(大正5年)、漱石が亡くなるまで過ごした「漱石山房」があった場所。今は通りに面して山房記念館、横から裏手にこの公園がとても綺麗になっていました。ここで漱石は、「三四郎」「それから」「こころ」といった代表作を執筆したのです。
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猫塚です。漱石の没後、遺族が家で飼っていた犬、猫、小鳥の供養のために建てたようです
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数年前に伺った時には建物は道草庵だけでしたが見違えるように整備されていました。

矢来公園(やらいこうえん)には複合遊具、グローブジャングル、動物などのスプリング遊具、砂場などがあり、またケヤキやスダジイなどの高木が木陰をつくっており、まずは安らぐ公園でした。ここ矢来町には江戸時代に小浜藩の下屋敷があり、屋敷内には江戸詰の藩士が居住し、「解体新書」を著した蘭学者杉田玄白は、この屋敷内で生まれたようです。公園内には杉田玄白、小浜藩邸跡記念碑がありました。
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矢来能楽堂(やらいのうがくどう)は観世九皐会所有の能楽堂。矢来観世家・観世九皐会の本拠地として活動の拠点となっているとのことです。1952年(昭和27年)に現在の舞台・建物が建てられ、現在東京都内にある能楽堂のなかでは、杉並区にある大蔵流狂言・山本家の舞台に次いで古いとのことでした。
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リストランテ・カルミネ(昼食)
日本で初めてイタリアンレストランを開いたカルミネさんだそうです。店員さんもイタリアン人の方が沢山おられイタリア語?が飛び交っていました。パスタは日本では珍しく歯ごたえがあり、美味しく頂きました。
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善国寺(ぜんこくじ)は、神楽坂にある日蓮宗の寺院。旧本山は大本山池上本門寺で鎮護山善国寺。安土桃山時代の1595年(文禄4年)、池上本門寺第12代貫主である日惺上人により、馬喰町に創建。たびたび火災に見舞われ、麹町を経て1793年(寛政5年)には現在地へ移転。本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め、芝正伝寺・浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれています。また新宿山ノ手七福神の一つでもあります。
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印刷博物館(いんさつはくぶつかん)は、印刷に関する博物館。2000年に凸版印刷が100周年記念事業の一環で設立し、印刷文化に関わる資料の蒐集や研究活動、活版印刷などの印刷を実体験するなどの実践・啓蒙活動を行っている所です。ミュージアムショップ、印刷関連図書専門のライブラリー、P&Pギャラリー、研修室(グーテンベルク・ルーム)、VRシアター(土日・土日に続く休日のみ)を併設しているとのことです。 駿河版銅活字(重要文化財)をはじめ印刷の歴史や社会的な背景、表現など印刷文化に関わる本全般を扱っていました。とても短時間では見ることができず、こちらも再訪が必要と思いました。
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本日の街歩きは若い渡辺先生の先導でしたから街並みを見ることを十分堪能しました。印象的は神楽坂界隈が面白かったです。結局最後の最後、印刷博物館を出るまで雨に合わず、快適でした。約11km、17000歩を本日も元気に過ごせたことに感謝!今後も地道に街歩きを楽しみたいと思っております。
posted by yunofumi at 12:21| あちこちウォーク

2019年07月10日

2019.7.7さいたま彩発見ぶらり街あるき

第3回岩槻区

東武野田線岩槻駅⇒東玉人形博物館⇒人形町通り⇒法林寺⇒八雲神社⇒浄国寺⇒人形歴史館・御成街道⇒岩槻郷土資料館・市宿通り⇒田中屋本店⇒東玉大正館⇒岩槻温泉ビル⇒ふな又(昼食)⇒岩槻藩遷喬館⇒裏小路公園⇒岩槻人形博物館⇒時の鐘⇒岩槻中学校⇒太田諏訪神社⇒市民会館いわつき⇒岩槻城址公園⇒マミーマート岩月店・ほんまる歯科⇒本丸自治会館⇒岩槻本丸郵便局⇒久伊豆神社⇒新正寺曲輪⇒本丸2丁目⇒岩槻本丸郵便局⇒浄安寺⇒大龍寺⇒大工町石柱⇒愛宕神社・岩槻城大構⇒東武野田線岩槻駅

昨夜からまだ梅雨の雨が続いています。しかし岩槻につくとほぼ雨は止んでおり、まずまずの気分で10:00出発。気温は19℃でやや肌寒でしたが元気に参加者16名は講師喜多見先生、TD岡さんとご一緒しました。

東武野田線は、大宮駅から千葉県柏市の柏駅を経て船橋市の船橋駅を結ぶ東武鉄道の鉄道路線。2014年4月1日より全線で「東武アーバンパークライン」(TOBU URBAN PARK Line)の路線愛称です。路線距離は62.7km、駅数は35駅、当初は野田醤油を運ぶために設置された路線だったようです。私は本日、初めてこの路線に乗りました。
駅を出ると今日は朝顔市とのことですでに賑わっていました。ちなみに朝顔は入谷と同じだそうですがお値段は少々安価とのことで例年訪れる方も多いようでした。
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駅前に「ミミズク土偶」がありました。
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真福寺貝塚(しんぷくじかいづか)は、岩槻区城南3丁目の縄文時代後期から晩期の集落跡で、貝塚と泥炭層からなっていました。泥炭層は真福寺泥炭層遺跡とも呼ばれているとのことで、大宮台地の岩槻支台の標高10mから13mにあります。 大正末年に、縄文時代晩期の竪穴住居跡及び土偶、勾玉、打製・磨製石斧、石鏃、石棒、砥石、独鈷(どっこ)石、磨石、凹石、曲石、X字形石製品、耳飾り、土版、骨角器等とともに多数の土器などの遺物が出土、貝塚は・ヤマトシジミの主淡貝塚で、直径150mの馬蹄形、または円形に散在することもわかったようです。 また、この遺跡から出土した土器は、1934年(昭和9年)に山内清男さんにより真福寺泥炭層式と提唱され、関東地方における縄文時代晩期前半の標識的な土器であり、歴史的価値が高く、今は東京国立博物館にあり、こちらのものはレプリカとのことでした。

東玉人形博物館は岩槻駅前にありました。ここは東玉のすぐれたコレクションより生まれた「人形の博物館」です。その収蔵品は多彩で、御所人形、雛人形、羽子板、五月人形、衣装人形やあやつり、からくり人形、さらには現代作家名匠の逸品から海外の人形までが展示されていました。また、見学の出来る人形工房や和風小物の売店が併設されており、体験教室で実際に絵馬や人形等の製作体験ができるとのことでした。展示では江戸時代のお雛様のお顔がつやつやしていたのが印象的でした。

岩槻は人形の街ですから人形町通りには何軒も人形屋さんがありました。

法林寺は太田道灌公 ゆかりの曹洞宗のお寺。
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芳林寺は、曹洞宗のお寺で山号は大平山。静岡県藤枝市洞雲寺の末寺とのこと。本尊は釈迦如来。開山は覚翁文等で、この方は1595年(文禄4年)に没したようです。言い伝えでは、以前、他の場所にあったお寺が、1520年(永正17年)火災に罹ったため、太田大和守資高が自分の居城であった岩槻にこれを移し、1523年(大永3年)春に再建したのです。たまたま資朝公の母が禅門に帰依して芳林妙春尼と号していた方で、1567年(永禄10年)に逝去されたため、陽光院殿芳林妙春大姉と号し、その寺号を芳林寺に改めたといわれています。1591年(天正19年)高力清長が城主となった時、その荒廃を嘆き大修理を加え復旧、この後幾度か火災に遭い、2代目城主高力忠房が再び造営復旧したのです。さらにまた1811年(文化8年)焼失したため、1841年(天保12年)に本堂(間口9間・奥行5間)及び庫裡(間口12間・奥行5間)が再建されたのです。

境内にある太田道灌公騎馬像
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埼玉県庁が最初に設置されたのが芳林寺で門前にいきさつを記した石碑がありました。
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墓所には高力正長公御霊廟、太田道灌公御霊廟にお詣り。そのほか、田中保(たなかやすし)画伯のお墓もありました。この方は岩槻町出身。浦和画家の一人。海外で活躍したエコール・ド・パリの画家で、パリの画壇でサロンを中心に豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びたようです。日本に一度も帰国することなく第二次世界大戦中のパリで客死したのですが、近年、次第にその業績が知られるようになってきているとのことでした。

八雲神社。
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1560年、岩槻太田の家臣勝田佐渡守が当地に市を開設したときの市の守護神を祀った社。江戸時代には牛頭天王社と称されていたけれど明治になって八雲神社と改称したとのこと。今日はたまたま中まで見せていただきました。
本殿の彫り物が立派でした。
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参道は市宿通りにあり、8月に行われる岩槻まつりもこの神社の祭礼に起源があるとのことです。

浄国寺(じょうこくじ)は、浄土宗の寺院で、山号は仏眼山。院号は英隆院。本尊は阿弥陀如来。1587年(天正15年)岩槻城主太田氏房の開基、清巌の開山により創建されたということです。早い時期から浄土宗の檀林が置かれ、江戸時代には浄土宗の触頭であったといわれています。
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岩槻郷土資料館は、岩槻城下町の大通りだった市宿町の中ほどにあり、1930年(昭和5年)に建てられた旧岩槻警察署の建物で、岩槻の歴史について展示を行っていました。民具を中心とする民俗資料の収集、保存を目的とした資料館でした。さいたま市立博物館の分館とのことです。建物は2016年、国の登録有形文化財に登録されています。建物落成当時は現在の岩槻区域で初めての鉄筋コンクリート製の建築物だったそうです。

田中屋本店は江戸時代後期・嘉永年間の創業以来、ずっと岩槻で菓子屋を営んでおり、蔵造りの店舗は、約160年前に建てられたもので、風格のあるたたずまいでした。
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名物は、岩槻城が白鶴城と呼ばれていたことにちなんだ、白鶴城印 栗最中。昔と変わらない手作りの味で、それぞれ小豆あん、白あん(栗入り)、ゆずあんがたっぷり入っているようです。ほかにも、濃厚な生のよもぎを練りこんだよもぎ団子や、代々受け継がれてきたタレが自慢の焼き団子なども人気があるとのことでした。

東玉大正館は中井銀行岩槻支店として大正後期に建築された煉瓦造2階建ての洋館建築。建物正面を3分割し、上部を半円アーチ型で飾る入口を中心に、左右に窓を対象に配置する大正時代の中小規模銀行の典型的な事例とのこと。壁面は腰壁を石貼りとし、その上を煉瓦タイルとモルタルで仕上げ、1階の背面には、金庫室が張り出しています。今日は見られませんでしたが、屋根は寄棟の瓦葺で、内部は三角形の骨組を基本とするトラスの小屋組みとなっていると伺いました。
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ふな又(鮒又)は100年以上の歴史ある日本料理の割烹旅館。江戸時代には城下町として、また将軍の日光東照宮参拝の通行路(日光街道)の宿場町としても栄えた岩槻で歴史を刻んできたとのことです。12代将軍家慶による、1843年(天保14年)の日光東照宮参拝の大名行列の様子を綴った文献に、当時のふな又も描かれているとのことでした。当時の当主は鮒屋又右衛門。
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昭和39年平成天皇ご夫妻が岩槻にお越しになった時、こちらで鰻重を召し上がったそうで、当時の食器が飾られていました。
またこちらは昭和の女優三宅邦子の実家とのこと。1916年、6人兄弟の末っ子として「ふな又」で誕生。埼玉県久喜高等女学校卒業後、松竹に入社。1934年に『夢のささやき』で映画デビューし、島津保次郎監督の『兄とその妹』、小津安二郎監督の『戸田家の兄弟』などに出演。それ以降、小津の作品に連続出演するようになり結局、彼女の出演した映画は200本近くあるようです。小津の死後は『サインはV』『たけくらべ』などテレビ出演もあったようです。1992年、急性心不全の為、東京・調布の自宅で死去。享年76歳。
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「岩槻藩遷喬館(いわつきせんきょうかん)」は、1799年(寛政11年)に、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯(こだまなんか)が開いた私塾で後に藩校となり、岩槻藩の武士の子弟が勉学や武芸の稽古に励んだそうです。1871年(明治4年)に藩校が廃止になった後は、おおむね民家として使用されていましたが、1939年(昭和14年)に埼玉県の史跡に指定され、2003年(平成15年)から3年ほど解体修理・復原工事が行われ、埼玉県内では唯一現存する藩校の建物なのです。
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時の鐘は岩槻城の鐘楼で、1671年(寛文11年)当時の岩槻城主阿部正春が渋江口に設置したとのこと。以来、1720年(享保5年)の改鋳を経て、現在に至るまで、毎日、朝夕6時と正午の3回、美しい音色を響かせているとのことでした。
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太田諏訪神社は、岩槻城主阿部正次が、戦時の備えに軍神として信濃国(現長野県)諏訪上社を1623年(元和9年)に勧請奉斎したことがはじまりとのことでした。
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市民会館いわつきは各種イベントを始め、結婚式、披露宴、懇親会、講習会、研修会など市民のための施設。レストランでは埼玉B級グルメ優勝の元祖豆腐ラーメンを提供しているとのことで、ここでは食品サンプルをせめても、と眺めました。
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岩槻城址公園は、約600本の桜が咲く県内有数の桜の名所。ここは自然林に囲まれた起伏の多い公園で、岩槻城の土塁が今も現存しており四季を通じて数々の賑やかな催し物が開催されるとのことです。春の季節には、桜まつり、流しびなが行なわれ、秋には人形供養祭が行なわれるとのことです。

人形塚
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岩槻城址公園内の人形塚前において毎年11月3日(祝)に、全国の人形愛好家の方々の、捨てるにしのびないという優しい気持ちに応えようと毎年「岩槻人形供養祭」が開催されるとのことです。当日は古くなって飾らなくなったり、壊れたり、使わなくなった人形が持ち寄られ、人形塚脇の黒門の周りに並べ、約20名の僧侶(岩槻仏教会)の読経のもとに参加者が焼香し、人形の持ち主は受付の際に渡される供養札を、天児(あまがつ・日本の人形の原形といわれ、子どもの健康と幸せを守るもの)に見守られながら、お焚き上げして冥福を祈るとのことです。

白鶴城(岩槻城)石碑。
岩槻城は、戦国時代に築かれた平山城で大宮台地岩槻支台上に立地し別称に岩付城、岩附城、浮城、白鶴城などがあるようです。元荒川が婉曲している内側にあった岩槻城はつまりは沼地の中にあったようなのです。今、沼はもうなくて、町が広がっていました。
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一番目立ったのは園内の菖蒲池に架かる朱塗りの八ツ橋。
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そういえば岩槻の区の花は山吹だそうです。太田道灌に因んでいるようです。
岩槻城本丸の辺りは町名も本丸、そして本丸のあった場所には現在、スーパーマミーマート岩月店がありました。テナントとしてほんまる歯科もありました。記念碑があればよかったのに残念でした。

久伊豆神社。
岩槻城の総鎮守で、正式名称は、「武州岩槻総鎮守 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)。「久伊豆神社」があちらこちらにあるので「岩槻久伊豆神社」ともいうようです。主祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)。大国主命といえば、出雲大社の神様。”だいこくさま”とも呼ばれ、縁結びの御神徳として有名です。
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また神社の名称が、久(ク)伊(イ)豆(ズ)と読めることから勝負運に強い神社ともいわれ、「クイズ神社」としても親しまれているとのことです。
境内には929個の風鈴が境内につるされ、参拝者にさわやかな涼を届けていました。もうひとつ境内には孔雀小屋もありました。孔雀は、1938年(昭和13年年)に、朝香宮(あさかのみや)殿下が岩槻にご来臨の折に、白金宮殿で飼育していた孔雀三羽を奉納されたのが始まりで、現在は二十羽近くまで増えたそうです。孔雀の他に、鶏もいます。しかも放し飼い状態でした。

浄安寺(じょうあんじ)の創建年代等は不詳ながら、かつては真言宗寺院だったといいます。増上寺5世天譽上人光蓮社了聞が、永正2年(1505)浄安寺を浄土宗に改めて開山、慶長7年(1602)には寺領62石の御朱印状を拝領したといいます。徳川忠輝が改易した際には、その妻子は岩槻藩主阿部家に預けられ、死後当寺に葬られたということです。
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境内には児玉南柯の墓がありました。児玉南柯【1746年(延享3年)〜1830年(文政13年】は、江戸時代後期の岩槻藩士で儒学者。藩の要職を歴任した後、私塾(後に藩校となる)「遷喬館」を開設して藩士等の子弟の教育にあたりました。文政13年、病のため85歳で死去し、浄安寺に葬られたのです。
浄安寺の前に「武州鉄道の小径」と書かれた木板がありました。今は何の痕跡もない道ですが1924年〜1938年の短い期間、蓮田駅と神根駅を結んでいた鉄道跡だそうです。

曹洞宗寺院の大龍寺(だいりゅうじ)は、雲居山と号すとのことです。大龍寺は、岩槻城主青山伯耆守忠俊(大龍寺殿春室宗心居士、寛永2年1625年寂)が開基となり、一峯麟曹(元和9年1623年寂)が開山したということでした。
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名前にちなんだ大きな龍の彫り物がびっくりするほど目立ちました。

愛宕神社の祭神は迦具土命で、境内には松尾神社(祭神 大山昨命・伊弉諾命・伊弉冉命)、稲荷神社(祭神 倉稲魂命)、天神社(祭神 菅原道真)があるとのことでした。迦具土命は火防、盗難除、安産の神、子育ての神で、近年は、進学・就職の神として信仰を集めているようです。創建は明らかではないようですが、江戸時代初期の「武州岩槻城図」に愛宕神社が記されているとのことでした。
いい伝えでは、1457年(長禄元年)に大田資清(あるいは道灌?)が岩槻城を築くにあたり城廓として外堀と土塁(土居)を造った時、その傍らに小さな祠一社があり、風雨に曝された小板に幽かに迦具土命と言う字が見えたことから、これは火防の神(愛宕大神)だろうということで土塁上に移し祀ったようです。その日が現在の7月24日であったところから、今でもこの日を祭礼日として祭典を行っているとのことです。
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室町時代に築城された岩槻城でこの愛宕神社はその岩槻城の土塁の上に鎮座しているということでこの場所を岩槻城大構というようです。神社横から見ると大構えがよくわかりました。

本日は小雨の中、岩槻の街を歩き回りました。足元にはカラフルなマンホールもありました。
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岩槻区はさいたま市の北東部で城下町・宿場町でもあり文化財や史跡も多そうでした。現在は人形の街なので人形に因んだ行事も多そうです。さいたま市内10区の中では最も広く、浦和区などから見れば自然の多い感じでした。はじめて乗った野田線も優雅な感じでしたからまた気候の良い時に、色々手に入ったガイドマップもとても分かりやすかったので再訪したいと思いました。
本日のウォーキング歩程約10km、約17000歩、15:30参加者全員元気に終了しました。
posted by yunofumi at 00:07| あちこちウォーク

2019年07月04日

2019.7.4 2巡目第4回東京の新発見旅「文京区」

今朝は自宅を出るときはバケツをひっくり返すような土砂降り。集合場所JR水道橋駅ではほぼ小雨。その中で10:00スタート。講師 國先生、TD山際さん。参加者は雨降りの影響で取り消し者続出のため結局15名。

JR水道橋駅西口⇒小石川後楽園⇒文京区役所展望山台⇒源覚寺・こんにゃく閻魔⇒AOI NAPOLI(昼食)⇒慈眼寺⇒善光寺坂⇒傳通院⇒福寿幼稚園⇒メトロ後楽園駅

小石川後楽園は江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)。1629年(寛永6年)、水戸徳川家水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、明の遺臣朱舜水(朱之瑜)の選名によって「後楽園」と命名して完成させたとのことでした。
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内庭。
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円月橋
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文京区役所展望山台。
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建物自体は文京シビックセンターというようです。この25階が展望台。だれでも自由に入れます。高さが142mで超高層と言う程のことはないけれど、近くに高い建物がないので非常に目立ちます。近くには、東京ドームシティや小石川後楽園などもあり、観光で訪れるにはよい所です。今日は雨模様でしたが案外によく見えました。

源覚寺は、380年余り前の寛永元年(1624年)、定誉随波上人により現在地に開創されています。この頃、「明暦の大火(1657年)」、「お薬園火事(1762年)」、「戸崎町火事(1774年)」、「富坂火事(1884年)」と、4度もの大火があったようですが幸いにも、ご本尊も閻魔さまもその都度、難を逃れることができたとのことです。あの太平洋戦争の東京大空襲でも本堂への延焼はなかったとのことです。
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ここは閻魔大王が有名です。
宝暦年代のころ(1751年〜1764年)、眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈願を行ったところ、夢の中に大王が現れ「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、ひとつを貴方に差し上げよう」と言われたそうです。そして満願の日に、老婆の目は治り、それ以来、大王の右目はつぶれて盲目となったのです。老婆は感謝のしるしとして好物の「こんにゃく」を断ち、それをお供えつづけたということでした。

AOI NAPOLI(青いナポリ)は文京区小石川のイタリアン&ピッツェリアのお店。
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私たちはパスタも珈琲を含めデザートも美味しくいただきました。そうそう、ウエディングやパーティもできるそうです。

善光寺坂は文京区小石川2丁目と3丁目のちょうど境目にあり、地下鉄春日駅・後楽園駅の側、富坂下交差点そばの路地を曲がった先の坂道。
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ここにある大きな椋の木(ムクノキ)の案内板がありました。この木は樹齢300年にもなるという大木で澤蔵司稲荷の魂が宿っているといわれているとのことです。
またこの椋の大木の前には、幸田露伴が住んだ「小石川蝸牛邸」があった所です。
幸田露伴が疎開した後、「小石川蝸牛邸」は空襲で焼失したのですが、露伴の娘である幸田文が同じ場所に家を建て、さらに娘の青木玉と暮らしたということで案内もあります。

傳通院は浄土宗の寺。正式名称は、無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。徳川将軍家の菩提寺。江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所。「でんずういん」とも書かれています。
山門
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本堂
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徳川家康の母、於大の方の墓
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その後、千姫、柴田錬三郎、浪越徳治郎等のお墓にお参りしました。

本日は汁真っ只中で特に九州地方は大変なことになっています。まずは雨にもめげずウォーキングツアーに参加しましたが足下が危なく午後はこの後小石川植物園などの予定でしたが私は2巡目ということもあり、途中でリタイアしました。
今後は天候も回復するでしょうからこれに懲りずにまたボチボチウォーキングに参加したいと思っております。
posted by yunofumi at 21:21| あちこちウォーク

2019年06月30日

2019.6.29名城めぐり第1回

本佐倉城跡・佐倉城跡・大多喜城

AM10:00新宿駅西口・10号線高架下都庁大型バス駐車場集合、参加者22名、講師信野先生、TD佐々木さんと共に中型バスで出発。今日は千葉県のお城でしたからちょっと遠かった印象でした。
一つ目、「本佐倉城跡(もとさくらじょうせき)」です。
本佐倉城は文明年間(1469〜1486年)に築城。それより約100年下総国に政治経済文化の中心を担いました。元々千葉氏は鎌倉・室町幕府のもとで下総守護職として筆頭の地位にあった一族なのです。

本佐倉城跡は日本城郭協会の定める「続日本100名城」のひとつでスタンプは酒々井(しすい)中央公民館にありました。
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スタンプのある玄関ロビーは本佐倉城跡の資料がいっぱいでした。
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その後お城のあった場所まで歩いて移動していくと大きな案内板がありました。
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いよいよ入口です。
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まずは定番の登り道です。
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城山に通じる通路です。
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妙見宮跡は儀式や儀礼を行なった所のようです。
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城跡より印旛沼や筑波山を望むビューポイントです。
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このように佐倉城跡見学後はバスで移動しました。
                                      
二つ目、「佐倉城跡(さくらじょうせき)」の「日本100名城スタンプ」は佐倉城址公園管理センターにありました。
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佐倉城は天文年間(1532〜1554年)本佐倉城主千葉親胤の命で鹿島親幹が築城を開始しましたが親胤の暗殺で工事は中断。その後慶長15年(1610年)家康の命で土井利勝が完成させたのです。城郭は石垣ではなく、土塁。明治維新で廃城令でここは陸軍歩兵部第2連隊、後に歩兵第57連隊4(佐倉連隊)の駐屯地になったのです。

公園入口の案内図です。
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三の門跡です。
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安政3年(1856年)、タウンゼント・ハリスは、アメリカ大統領の親書を携え下田に到着。来日の目的は、アメリカ初代駐日総領事として他国に先駆け日本と通商条約を結び、開国を実現させることだったようです。こうした動向が、当時幕府で老中を務めていた開明派の佐倉藩主堀田正睦を外交の舞台に登場させることになったようです。ハリスと正睦により、幾度にもわたる直接交渉が行われた結果、安政5年(1858年)6月19日、日米修好通商条約が締結されました。
タウンゼント・ハリスの像。
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堀田正睦公像。
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正岡子規の句碑。「常盤木や冬されまさる城の跡」
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明治時代に俳句・小説・文学評論など様々な文学の分野において活躍した俳人。正岡子規が佐倉に来たのは既に病魔に蝕まれていた26歳位の時で、当時、本所から佐倉間に開通したばかりの総武鉄道に初乗りして訪れ、この句を詠んだということです。

二の丸御殿跡。
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本丸跡。
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夫婦モッコク。
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モッコクは、南関東地方以西の暖地の山野に自生するツバキ科の常緑高木で、千葉県でも清澄山系の尾根に生育。このモッコクは、佐倉城の本丸跡の西側の土塁に植えられていました。現在では樹高は11.6m、幹囲2.9mもあり元気な樹木のようです。現在、幹は3本が立ち上がっており、このうちの2本が癒合して、2株のように見えました。

銅櫓跡。
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ここにあったはずの銅櫓は、佐倉城を建てた土井利勝が将軍から拝領したもので、江戸城から移築されたものとのことです。造ったのは太田道灌だそうです。

佐倉城礎石。
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佐倉城は、江戸時代初期の元和元年に土井利勝が築きましたが、その際にこの大量の石を基礎としていたのです。明治初期に陸軍が城を取り壊し兵舎を建てましたが、その際にもこの石を使った基礎を転用したとのことでした。

佐倉陸軍病院跡。
佐倉城址の場合は、軍の草創期から軍隊の駐屯が行われた。 すなわち、1874年(明治7年)には陸軍歩兵第二連隊が当佐倉城址に駐屯、1877年(明治10年)の西南の役に出動、1894年(明治27年)〜1895年(明治28年)、および1904年(明治37年)〜1905年(明治38年)の日清日露の両戦役にも参戦した。日露戦争では、旅順、二百三高地の戦闘にも加わり、多くの戦死者、戦傷者を出した。1909年(明治42年)に陸軍歩兵第二連隊は水戸に移転、二七旅団に属し、第一四師団隷下となった。この陸軍歩兵第二連隊の佐倉駐屯以降、十ニもの連隊が佐倉で編成され、これらを総称して「佐倉連隊」というそうです。

姥が池。
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「姥が池」(うばがいけ)は、昔、この池のまわりで家老の娘をおもりしていた姥(うば)が、あやまって娘を池に落として沈めてしまい、困り果てて自分も身を投げたということからこのような名がついたそうです。

国立歴史民俗博物館がある場所は、かつて椎木曲輪(しいのきくるわ)と呼ばれた侍屋敷があった区画で、「角馬出(かくうまだし)」と呼ばれる遺構が復元されていました。

その後公園内をウォーキング。こちらを見学後は約1時間半バスで移動。
                                        
三つ目、大多喜城(おおたきじょう)は復元されたお城が千葉県立中央博物館大多喜城分館になっており「続名城スタンプ」は2階展示室にありました。
大多喜城は大永元年(1521年)に真里谷信清が築城。その後安房の里見氏の重鎮の上総正木宗家の居城として発展。それより以後家康の重臣本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立。忠勝により三層4階を持つ近代城郭となったのです。現在の城郭は1957年(昭和50年)に復元された鉄筋コンクリートの歴史博物館です。
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大多喜城入口の案内図を見ながら進んでいきます。。
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大多喜水道。
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140年ほど昔、大多喜城下の人達はたいへん水に困(こま)っていました。そこで大多喜藩知事(はんちじ)大河内正質(おおこうちまさただ)は、城山から水を引くことを計画したのです。城下の豪商小高半左衛門(おだかはんざえもん)(柳原)が世話役となり、三上七五郎(みかみしちごろう)(上原)高橋四郎左衛門(たかはししろうざえもん)(小苗)等が中心になり計画を立てました。 明治二年十一月、静かな城山にカマ、ナタ、クワやスキ、モッコを持った大勢の人夫たちが集まり、半左衛門が工事によってもたらされる豊かな生活を説明しました。そうして最期にみんなで力を合わせてがんばろうと、話をしめくくったのです。人々は納得し一生懸命働いたのです。この工事で延べ5,606人が働いたようです。明治3年5月。工事開始からわずか7ヶ月という短い日数で工事は完成したのでした。そしてこの水道は昭和29年、町営水道ができるまで約80年もの間、大多喜町民に恵みを与えてきたのです。

大多喜城入口。
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天守より薬医門を見ると県立大多喜高校の正門付近に「薬医門」が見えました。
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大多喜城の数少ない建築遺構がこの薬医門です。本丸跡の東側の崖からは、現在県立大多喜高等学校となっている二の丸跡や城下町を見下ろすことができるのです。

大多喜城主本多家五重塔写真。
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本多家三つ扇紋付袴
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大井戸。
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大多喜高等学校のグランドの一隅には、本多忠勝が掘らせたという周囲17m、深さ20mの大井戸がありました。

三名城を見終わると16:00を回っており、海ほたる経由で新宿に帰り着いたのはほぼ19:00.。
名城めぐりは街道ウォークと違い、かなりアップダウンがあることを実感。でも気温22℃、小雨、時々の雨にもあまり苦労せず、また大降りしなかったことが幸いでした。午後はほぼ雨がやみ、まずは快適な名城めぐりでした。5月に鉢形城を見たことがきっかけで今日の名城めぐり参加となりまりましたが、また機会があれば参加してみようと思いました。
posted by yunofumi at 21:38| あちこちウォーク

2019年06月22日

2019.6.21 市民大学ふじみ野 大人の社会見学 大井浄水場

今月初めから市民大学の講座を受けています。今日は大井浄水場の見学です。
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ふじみ野市は平成17年に上福岡市と大井町が合併して誕生しています。現在、市民が約11万人、世帯数は約5万戸、そのうち2戸が井戸水の生活をされていると伺いびっくり。
まずは水道事業の説明を上下水道課の方々より伺いました。
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ふじみ野市の水道水は荒川取水口から供給されている埼玉県営水道(略して県水)が2/3と市内の5カ所の井戸から取った地下水1/3をブレンドした水が一般家庭に届いているとのことでした。その工程の中に色々な消毒が行われ水質検査項目としては51項目もあり、とても驚きました。残留塩素値としては基準では0.1以上と決まりがあるとのことですが市の水道水は0.3〜0.4だそうです。また市内水道料金は一般用としては1㎥あたり72円ということでした。

下水道については市内に高低差があることもあり、また下水道が自然に流れるように下水管が埋没されていることや下水排除方式は汚水と雨水を別々の下水道管に流す分流式とのことでした。ふじみ野市の公共下水道の汚水処理は他の近辺の市と同様に荒川右岸流域下水道に接続し、最終的には新河岸川水循環センターで汚水処理をしているとのことでした。

近年ハード対策として集中豪雨などに備え、雨水幹線の整備や調整池の整備が急がれているとのことでした。

ふじみ野市は上福岡浄水場と大井浄水場がありますが、講義の後、大井浄水場の設備を以下の順で見学しました
第2配水池⇒第1配水池⇒1号・2号配水塔⇒井戸⇒給水車⇒発電機室⇒浄水場監視室
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本日は今まで知らなかった市内の上下水に関して教えていただき有意義でした。地震に備えた考え方や対応も十分そうでとても安心しました。
posted by yunofumi at 21:55| ドタバタ日記

2019.6.19  2巡目第3回 東京の新発見旅「板橋区」

今朝の天気予報はやはり梅雨!とのこと。しかし思いがけず日射しのある中、ウォーキング開始。講師牧先生、TD金子さん、参加者は15名。

都営三田線高島平駅東口⇒高島平団地⇒熱帯環境植物館⇒板橋区こども動物園高島平文園⇒徳丸が原⇒高島平健康福祉センター⇒高島平図書館⇒高島平第七小学校(廃校)⇒赤塚公団前信号⇒赤塚諏訪神社⇒竹の子公園⇒赤塚城址⇒板橋区立郷土資料館⇒板橋区立美術館⇒赤塚不動の滝⇒大仏そば萬吉禎⇒乗蓮寺・東京大仏⇒赤塚植物園⇒麺工場幸住⇒松月院⇒東武東上線下赤塚駅

都営三田線高島平駅は1968年開業、元は志村駅、1969年に現在の駅名に変更。現在1日3万人以上が利用。
この辺りは元々徳丸ヶ原といわれたところ。 1841年(天保12年)砲術家高島秋帆が当地域にて、日本で初めてとなる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ったとのこと。
高島平団地は1972年(昭和47年)から始まり総戸数は10,170戸と日本最大の団地が出来上がったようです。
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板橋区は、区制施行70周年を記念して、平成15年2月、板橋ならではの自然景観、都市景観、名所・旧跡、イベントを「板橋十景」として選定したとのことです。@赤塚溜池公園周辺、A板橋(旧中山道の仲宿付近の石神井川にかかる橋)、Bいたばし花火大会、C志村一里塚、D石神井川の桜並木、E松月院、F田遊び(徳丸・赤塚)、G高島平団地とけやき並木、H東京大仏(乗蓮寺)、⓾南蔵院のしだれ桜
今日はこのうちいくつかを見ることが出来そうです。

板橋区立熱帯環境植物館。
熱帯環境植物館(グリーンドームねったいかん)は、東南アジアの熱帯雨林を立体的に再現していました。館内は潮間帯植生、熱帯低地林、集落景観の3つの植生ゾーンに分かれ、温室を中心に、熱帯の高山帯の雲霧林を再現した冷室、さらに地階にはミニ水族館を設け、海から山へと続く、一連の熱帯環境を楽しみながら学べる博物館型植物館。施設全体で約3000m2、そのうち植栽面積は1000m2で、地下1階から地上2階までは吹き抜け。隣接している高島平温水プールや高島平ふれあい館とともに、板橋清掃工場の余熱を利用した省エネルギー型の施設で平成6年に誕生したとのことでした。
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カラーズエリ―フィッシュ
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メダカ展
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メキシコサラマンダー
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板橋区こども動物園高島平分園は高島平駅そばの小さな動物園。主な飼育動物はヤギ・ヒツジ・モルモット・ウサギ・シマリス、キボウシインコ等の鳥などもいて気軽に多くの子供たちが来ていました。
こども動物園高島平分園に隣接で徳丸ケ原(とくまるがはら)の石碑がありました。
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徳丸ヶ原は、現在の高島平及び三園、新河岸の大半の地域に相当する江戸幕府の天領、及び地域の総称で、東西1.4km、南北0.88km。地名としては、西台、徳丸本、徳丸脇、四ツ葉、下赤塚、上赤塚、成増などがあったとのことです。 徳丸ヶ原全域は赤塚城のふもとにあったのです。後ほど赤塚城址に行きます。

赤塚諏訪神社の創建年代は不詳。昔、赤塚領主であった千葉介自胤が、長禄年間(1457〜1461年)に信濃国・諏訪大社よりその御分霊を勧請し、武運長久を祈願したとのことです。新編武蔵風土記稿によれば下赤塚村の鎮守であったとのことです。江戸末期の1866(慶応2)年、社殿廃頽のため本殿が再興され、明治初頭の神仏分離令により、旧別当・真言宗常福寺の支配を離れるとともに十羅刹女の奉斎を廃し、1874(明治7)年4月3日村社に定められたのです。この神社に伝わる特殊神事「田遊び」は、1976(昭和51)年徳丸北野神社とともに国の重要無形民俗文化財に指定されたとのことです。
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ここは板橋区じゃないじゃないかと思うくらいの立派な竹林は「竹の子公園」でした。
鳳凰竹、金明竹など約13種類の竹があり傍には「竹のお話・竹のオモチャ」の解説板がありました。
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赤塚城址。
現在、遺構はなく東京都立赤塚公園の一部で広場、梅林、桜並木などがありました。
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1456年(康正2年)に市川城から移った千葉自胤によって築城されたとのことです。 赤塚城は、真北にある荒川の早瀬の渡し場を一望し、また武蔵北部から武蔵南部の下赤塚、江古田に至る鎌倉道(埼玉道)を押さえる、陸運、水運を掌握する要衝であったのです。赤塚千葉氏は後北条氏の有力な家臣として活躍し、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収され、赤塚城は廃城になったのです。

板橋区立郷土資料館は赤塚城址及び赤塚溜池公園に隣接しており、板橋区の歴史や文化・自然に関するさまざまな資料、情報の展示がありました。
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新藤楼門
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古民家
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庚申塔
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赤塚不動の滝は山岳信仰が盛んとなった江戸時代の中ごろより、富士山・大山(神奈川県相模原)などの霊山に発拝する際、出発に先だち地元の人たちがここで身を清める“みそぎ”場として使われていた場所。崖上にはこの滝の守護神ともいえる不動尊石像が祀られているようです。昔は滝つぼの前に垢離(こり)堂が設けられていたようですが、昭和八年滝つぼが整理される前には、現在より水量も多く水の落ち口も広かったようです。この滝水はいかなる時でも涸れることがないようです。
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大仏そば萬吉禎で昼食にかき揚げ丼とお蕎麦をいただきました。
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乗蓮寺(じょうれんじ)は応永年間(1394年 – 1427年)に了賢無的が山中村(現在の板橋区仲町)にて人々に教えを伝えるために創建されたようです。その後、板橋区仲宿に移転。天正19年(1591年)に徳川家康から十石の朱印地が寄進され、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となりまた八代将軍・徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所・お膳所としても使われたようです。その後昭和48年(1973年)に現在の赤塚の地(赤塚城二の丸跡)に移転。山号は赤塚山となったのです。そして1977年(昭和52年)、かつて東京を襲った関東大震災や東京大空襲など、悲惨な震災や戦災が再び起きないよう願いを込め東京大仏が建立されたのです。
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東京大仏。
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松月院は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が康正2年(1456年)に現:千葉県の市川から赤塚城に移り、その後1492年に当地にあった古寺・宝持寺を自身の菩提寺として定め、土地を寄進し、松月院と名を改めさせたのが始まりとのことです。 江戸時代には、徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。他歴代の将軍からも保護を受け発展したのです。幕末には、砲術家として名高い高島秋帆が1841年に近隣の徳丸ケ原(現在の高島平付近。高島平の名は高島秋帆にちなんでいる)で西洋式の砲術訓練を行った際に本陣がこの松月院に置かれ、この訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与えたようです。
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本日はお陰様で天気も持ちこたえ、大助かりでした。歩程約11km、14000歩で非常に順調でした。今回も麺工場幸住でクロレラ入りの中華麺をお土産で購入。帰宅後悠々で夕食作りをし、家族で美味しく冷やし中華をいただきました。
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本日の2巡目はほぼ前回と同じでしたがそれなりに説明の理解が深まりとても有意義でした。この調子でまたがんばります。
posted by yunofumi at 17:58| あちこちウォーク

2019年06月20日

2019.6.15 横浜18区ウォーク第16回緑区

JR長津田駅⇒ほう不動産⇒御野立所⇒大石神社・長津田宿常夜燈二基⇒旧大山街道⇒長坂夜雨⇒横浜田園都市病院⇒旧大山街道⇒林地蔵⇒二十三谷戸⇒天王鴬林⇒福泉寺⇒王子神社⇒長津田幼稚園⇒Covoloba⇒大林寺⇒JR長津田駅
今日は朝から雨降りなので気合を入れてウォーキング開始です。

長津田駅は東急田園都市線とJR横浜線、こどもの国線がありました。
最近、上皇陛下のニュースでこどもの国のことが話題になっていたのを思い出しながら浅井先生の解説に耳を傾けました。そもそもは1959年(昭和34年)4月の現上皇陛下が皇太子だった時のご結婚のお祝い金をもとに1965年(昭和40年)5月5日のこどもの日に開園。この土地は旧日本陸軍田奈弾薬庫補給廠跡の国有地だったのが米軍から返還され、国費など多くの民間企業や団体・個人の協力で整備された施設でこどもの健全育成のための児童厚生施設だとのことでした。こどもの国線は2000年までは社会福祉法人こどもの国協会が運営していた路線ですが今は東急がそれを担っているようです。

長津田(ながつた)は「長い湿田」という意味だそうで一般的には遷流する岩川上流部の集落を総称していう地名だそうです。具体的には多摩丘陵東縁部、鶴見川水系恩田川中流域右岸に位置し、地形としては町域北側に恩田川段丘崖があり、武蔵野層・鶴川層・上倉田層などに分類される洪積台地と恩田川・岩川周辺の10数本の谷戸からなる沖積地で構成されるとのことです。江戸時代の頃から小田原〜江戸の往来が盛んになり裏街道として足柄〜厚木〜江戸への裏街道、旧大山道の宿場のひとつとして長津田宿ができたようです。
本日は旧大山街道に沿いながらあちらこちらを巡るウォーキングとなりました。
またはじめに講師から長津田には「長津田十景」というビューポイントがあると説明を
受けました。これも楽しみたいと思いました。

長津田駅前には「ほう不動産」がありその傍には広い駐車場がありました。この辺りには桑が多く栽培されていたようでこの場所には蚕の繭から絹糸を取り出す工場があったとのことです。昔、「養蚕(ようさん)」は日本の大切な一大産業でしたから。今はまったくその面影はありませんでした。

御野立落雁(おのたちらくがん)。
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ここは大正10年の陸軍大演習で冬至の皇太子(昭和天皇)が演習をご覧になった場所。崖になった縁まで行くと眼下に恩田川をはじめ周辺が一面見渡せました。落雁とは雁が空から舞い降りる様子。ここには約7mの「皇太子殿下御野立之跡」の石碑がありました。

大石神社は長津田宿の西方、旧大山道に面する小高い丘の上にあり、王子神社とともに長津田の鎮守。ご神体の大石は無銘の自然石が六歌仙のひとりの在原業平であるという伝説が残っているとのことです。
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大石神社の女坂参道脇に、1843年(天保14年)、秋葉講中によって建立された燈籠(上宿常夜燈)がありました。燈籠正面に秋葉山の文字を刻み、基礎部分、中台側面には彫刻が施され、火袋部分には天狗の羽扇の透かしが見えました。
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大石神社を出てからいよいよ旧大山街道にそってウォーキング。長津田小学校から森村学園脇の旧道は昔の街道の雰囲気がありました。この風光明媚な景色は長津田十景のひとつで長坂夜雨(ながさかやう)というとのことです。
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旧大山街道を進むと長津田町4161付近の三叉路に「林地蔵」がありました。
辻の古木の根元にあり、念仏供養塔のようでした。説明板は読めませんでしたがお地蔵さんですから夭折(早世)した子供さんの供養と思いました。
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このあたりは谷戸(やと)と呼ばれ、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形で、その地形を利用した農業が古くから行われていたとのことです。今では土地の開発が進みこの辺りのような風景は少なくなっているようです。
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長津田町4155付近には二十三夜塔と辛うじて読める石塔がありました。道祖神でも双体僧形道祖神とのお話でした。
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小高い丘の上に天王社がありました。正式には牛頭天皇宮(ごずてんのうみや)といい、京都祇園社(八坂神社)が本社とのことですから格式は高いようです。ご祭神は須佐王の尊で疫病排除の神様とのことでした。
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この辺りは丘陵の尾根にあたり先は谷戸に通じており素晴らしく森閑とした緑の林で鴬が多いようで「天王鴬林(てんのうりんかん)」といわれており実際に鴬(ウグイス)の鳴き声も聞くことができました。

福泉寺(ふくせんじ)は高野山真言宗の寺院。詳名は薬王山医王院福泉寺。関東八十八箇所霊場の第65番霊場。
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王子神社(おうじじんじゃ)の南は国道246号に面しており長津田の鎮守とされており、王子権現や若一王子社とも呼ばれているとのことです。熊野信仰が盛んな頃、全国各地に若一王子神社が祀られこの神社もそのひとつとのこと。ちなみに若一王子神社とは熊野三山(本宮・新宮・那智)のうち新宮速玉大社に祀られている「熊野十二所権現」のひとつだそうです。このあたりは「王子秋月(おうじしゅうげつ)」として長津田十景なっていました。
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長津田幼稚園は陣屋跡で旗本岡野家の屋敷があったとのことでしたが全くその形跡はありませんでした。

土砂降りの中ようやく昼食場所「COVOLBA」に到着。
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チキンソテーとグリル野菜ガーリックトマトソースをいただきやっと人心地がつきました。ところがこの後はさらに土砂降りでそれでもめげずにまずは大林寺へ。

大林寺(だいりんじ)は、曹洞宗の寺院で詳名は慈雲山大林寺。長津田一帯を治めていた江戸幕府の旗本岡野家の菩提寺で、1570年(元亀元年)初代岡野房恒の父板部岡江雪斎が開基とのこと。岡野氏は小田原北条氏の旧臣であり、1591年(天正19年)に旗本に取り立てられて長津田村に500石の知行を得たようです。
大林寺は大火に何度も会い現在の木造の本堂、山門、客殿、座禅もできる五百羅漢堂、庫裏は2008年(平成20年)に完成したもの。
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旗本岡野家歴代の墓所。
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奇術師、引田天功(初代)の墓。
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大林寺山門の手前の横に大きな板碑がありました。
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これは1901年(明治34年)に長津田村の龍昌寺から移されたもので阿弥陀如来を表す種字キリークが刻まれています。高さが185pあり横浜市の板碑として最大のもの。記年については1303年(嘉元元年)または1304年(嘉元2年)とのこと。

参考に長津田十景を書いておきます。@大林晩鐘(だいりんばんしょう)A御野立落雁(おのたちらくがん)B大石観桜(おおいしかんおう)C王子秋月(おうじしゅうげつ)D高尾暮雪(たかおぼせつ)E天王鶯林(てんのうおうりん)F下宿晴嵐(しもじゅくせいらん)G長坂夜雨(ながさかやう)H長月飛蛍(ちょうげつひけい)I住撰夕照(じゅうせんせきしょう)

本日のウォーキングは10:00から14:00までの参加で早々にひきあげました。なぜなら昼食後の強い雨降りの状況は半端ではなかったからです。長津田駅に戻った後、上着から靴下まで予備の衣類に着替え、一息ついてから帰路につきました。強い雨降りの中でのウォーキングは久しぶりで、翌日まで体の節々が痛かったのが印象に残りました。結局、「年」を実感したのです。とはいえ今後もめげずにウォーキングをまだしばらく続けたいと思っています。
posted by yunofumi at 23:09| あちこちウォーク

2019年06月13日

2019.6.9さいたま彩発見ぶらり街あるき

第2回大宮区

JRさいたま新都心駅⇒けやき広場⇒さいたまスーパーアリーナ⇒コクーンシティ・コクーンホール⇒かのうや⇒氷川神社参道・一の鳥居⇒塩地蔵⇒白井助七の碑・山丸公園⇒大宮区役所⇒麗愛幼稚園⇒浅間神社⇒庚申塔神社⇒まこと釜めしとんかつ⇒スタアレコード⇒参道交番⇒神家食堂⇒氷川神社参道・平成広場⇒大宮アルディージャクラブショップ⇒氷川神社・二の鳥居⇒手焼岩せんべい⇒さいたま市立博物館⇒氷川だんご⇒氷川神社・三の鳥居⇒氷川神社楼門・拝殿⇒埼玉県神社庁・・蛇の池⇒大宮公園・小動物園・遊園地⇒埼玉県立歴史と民族の博物館⇒東光寺⇒JR大宮駅

数日前に梅雨入りの宣言もありましたが曇り時々雨という本日の気象予報にもめげずウォーキング開始。参加者17名。案内の講師喜多見先生、TDは小松さん。

JRさいたま新都心駅。
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駅舎は大宮区吉敷町四丁目にあり、JR東日本の東北本線の駅。2000年5月のさいたま新都心の街開きに先立ってこの年の4月に開業。業務地区としてのさいたま新都心は中央区と大宮区にまたがって整備されており、町名としての新都心は地区内の西側・中央区に位置しているので駅舎は東側の大宮区に所在しているとのこと。
1日約5万人が乗車。橋上の駅舎は1階がホーム、2階がコンコースと自由通路で建物の設計は、埼玉県狭山市出身の建築家鈴木エドワード。改札は1カ所で東口は商業施設のコクーンシティが中心。西口はホテルも含めJR関係、さいたまスーパーアリーナや合同庁舎、赤十字病院、県立小児医療センターなどがあります。

けやき広場。
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さいたま新都心駅改札を出てコンコースの自由通路突き当りにあり、ふれあい空間としてつくられたようです。人工地盤上に埼玉県の木「けやき」が立ち並び、クリスマスなども含め、色々なイベントが行われます。

さいたまスーパーアリーナは2000年5月にオープン。施設は埼玉県が所有。スポーツイベント・コンサート・テレビ番組の収録・講演会・株主総会・見本市会場など、さまざまな用途に対応し、最大37,000席の多目的アリーナ。イベントにより色々なタイプに変容できるとのことです。
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コクーンシティはJRさいたま新都心駅の東口に広がるショッピングモールでコクーン1、コクーン2、コクーン3とパークサイドビルの4棟でできており、もともとは片倉工業大宮製作所跡地における再開発計画が2001年より始まったようで、今も同社が施設の管理等を行っているとのことでした。コクーン (COCOON) の名称は英語で「繭(まゆ)」を意味し、片倉工業が製糸業として創業したことに由来すると初めて伺いました。
そしてコクーン2にはコクーンホールがあり、「大宮鳥瞰図」(1934年吉田初三郎画」もありました。
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片倉工業は明治期から大正期にかけての日本の主力輸出品であった絹糸の製造を行っていた片倉財閥を構築した老舗企業。かつての富岡工場(富岡製糸場)は日本の工業近代化の貴重な遺産としてUNESCOの世界文化遺産(富岡製糸場と絹産業遺産群)として知られています。2005年には富岡工場の建物等を地元の富岡市に寄贈しています。 1994年に伝統事業である蚕糸事業から撤退し、その後、不動産資産を活かしたショッピングセンター運営・不動産賃貸事業・小売事業の他、第二次世界大戦後に進出した自動車用部品製造、繊維製品の販売などを行っている会社だとのことです。

氷川神社参道はJRさいたま新都心駅近くの旧中山道から武蔵一宮氷川神社までまっすぐ伸びる18丁(約2km)のケヤキを中心とした並木道。ケヤキ、シイ、エノキ、スギなど20余種の樹木が600本以上植えられています。
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この「一の鳥居」が参道の始まり。鳥居の傍にある標石は氷川神社の中で最も古い石碑で表面には「武蔵国一宮 氷川大明神」とありました。
またこれより丁石が一丁(109m)ごとに見られました。
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氷川参道には、三本の大鳥居があり、神社に遠い順に「一の鳥居」、「二の・・」、「三の・・」と呼ばれています。「二の鳥居」は明治神宮より寄贈移築されたもので、現存する木造の鳥居では関東で一番大きいと言われています。

塩地蔵尊。
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江戸時代に旅の途中で病に倒れた父親の病気の平癒を二人の娘が塩絶ちをして地蔵尊に祈ったところ病が全快したのでお礼に塩を奉納したのが始まりとのことです。今でも地元で大事にされている様子でした。

山丸公園は山丸製糸工場跡地とのこと。白井助七は近代大宮の父といわれている方で大宮駅の開業に尽力し「鉄道の街」としての大宮を築いた方で記念碑ができているのです。石碑傍には蒸気機関車「C1229」が展示されていました。
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またすぐ傍には浅間神社がありました。
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大宮区役所は先月の5月7日に完成オープンしたばかり。当日は大変大にぎわいのお祭りイベントが行われたようです。入口そばで休憩をさせていただきました。

神家食堂(かみやしょくどう)は氷川神社の参道沿いにあるにあるイタリアンのお店。現在の名物は「大宮ナポリタン」や、「自家製手捏ねハンバーグ」とのこと。
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かつて、「鉄道のまち大宮」として栄え、その周辺で働いていた鉄道員や工場マンがよく食べていたといわれるナポリタン。そんなナポリタンを、ご当地グルメとして復活させたのが「大宮ナポリタン」。「大宮ナポリタン」の条件は、旧大宮市内に店舗があり、具材に埼玉県産野菜を1種類以上使うこと。氷川神社の鳥居の朱色、大宮アルディージャのオレンジにもちなんだ新名物を目指しているとのことです。大宮駅周辺の飲食店約50店が各店それぞれの個性あふれるオリジナルのナポリタンを提供しているのです。こちらのはもちもちで昔懐かしい味でした。
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平成ひろばは、氷川参道の一部を整備した公園で、通りの両側にケヤキやサクラ等が植えられ、その木々の間を散策できるようになっています。ちなみに桜は4月が見ごろです。
歩道は石畳で整備され、岩を組み合わせて作ったせせらぎもあり、市民の憩いの場として親しまれています。
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大宮アルディージャクラブショップはこのサッカーチームのショップでチームカラーのオレンジを生かし色々なグッズの販売もあるようです。
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氷川神社・二の鳥居。
一の鳥居を抜け、参道を進むと二の鳥居があります。大宮氷川神社の二の鳥居は、もともとは明治神宮の鳥居だったもの。それを昭和51年(1976年)に明治神宮から寄贈されて、武蔵一宮氷川神社に移築されたのです。
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さいたま市立博物館にはさいたま市に関する歴史・考古・民族などの資料の収集と展示がありました。建物が大きくてびっくりでした。本日は特別展示の「和同開珎」2枚を見に立ち寄りました。これはさいたま市中央区の与野西遺跡で3月から5月に実施した発掘調査で、奈良時代〜平安時代初期の住居跡から出土したとのことです。市内で初めての出土で、埼玉県内でもこれまでに8枚しか見つかっていないとのことでした。1か所から2枚見つかったのは県内では初めてで、さいたま市の古代史に新たな1ページとなる発見ということで特別公開をしていたのです。
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氷川だんご屋は参道脇でもう40年以上営業しているお店。
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無添加、焼きたてのだんごが美味しくてこちらに来るといつも買っています。今日は団体での移動なので残念に思いながら通過したところ何と、ツアーTDの小松さんと喜多見講師の配慮で「揚げまんじゅう」をこの後休憩した時にいただきました。揚げたてで、カリッと香ばしく、まぶした砂糖と、サクサクッと軽い皮の絶妙な食感、そして、ふんわりと柔らかな生地に包まれた、しっとりとしたこしあんの上品な甘みが、しみじみとやさしく口のなかに広がりとても美味しかったです。
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氷川神社・三の鳥居。
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二の鳥居を抜け、およそ2キロの参道を歩き、境内にたどりつき、三の鳥居を抜けてすぐ左側のところに「戦艦武蔵の碑」(せんかんむさしのひ)があります。戦艦大和と並び日本海軍が誇る戦艦武蔵の名は、この武蔵一宮氷川神社からとったものだそうです。戦艦武蔵の艦内神社は「氷川神社」でした。
現在の氷川神社三の鳥居は平成18年に建て替えられたもとのことで南を向いて鳥居の右柱を見ると文字を刻んだプレートが埋め込まれていました。
「奉獻 片倉製絲紡績株式會社取締役社長片倉同族會代表今井五介 昭和九年十月」
現在の三の鳥居に埋め込まれたプレートは、昭和9年の鳥居にあったものを、平成18年建て替え時に付け替えられたものと思われます。この「今井五介」さんは大正9年10月15日、副社長として皇后陛下に拝謁し、工場巡覧の案内役を務めたとのこと。また初代大宮市長でさいたま市名誉市民の14番目だそうです。
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これは明治天皇がお詣りで来られた時の図です。

氷川神社は武蔵野国一の宮といわれており孝昭天皇3年4月の創建とのこと。「国造本紀」によると、初代无邪志国造の兄多毛比命は成務天皇(第13代天皇)の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神として、当社を奉崇したということです。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造(无邪志国造)は出雲国造と同族とされ、社名の「氷川」も出雲の簸川(ひかわ)に由来するという説もあるようです。また平安時代後期、武蔵国の高位の神社とされ、国司からも崇敬を受け、平貞盛が平将門の乱において当社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方の武士に幅広く信仰され、荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がったのです。治承4年(1180年)には源頼朝が土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進、建久8年(1197年)には神馬神剣を奉納したようです。

楼門はとても立派でした。
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拝殿にお参りしましたが本殿は全く見えませんでした。
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蛇の池。
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古来、蛇は水神の化身とされ、祭神の須佐之男命はその大蛇を退治した伝承により、水を治めた神とされており、氷川神社ではご祭神の神威神徳からこの池の名がついているようです。
蛇の池は境内の神池や見沼たんぼのなどの水源のひとつで今も地中深く水が湧いているのです。この神秘的な湧水があったことからこの地に氷川神社が鎮座し、また氷川神社の発祥地ともいわれているようです。
蛇の池手前には近年、蛍を復活したいと「氷川ほたるの杜」の活動が始まっているとのことでした。

神社庁は全国8万社の神社を包括している組織で神社本庁は明治神宮の傍にあるようで昭和21年に設立。
埼玉にある埼玉県神社庁は氷川神社のすぐ隣にあり、埼玉県内2000社を包括しているとのことです。
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今日は中に入り祭壇や伊勢神宮の式年遷宮でいただいた神宝といわれるもののうち御櫛や櫛箱を見せていただきました。
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大宮公園・小動物園・遊園地
氷川神社と隣接している「大宮公園」は大宮駅の東北、約1.5kmにあります。もともとは明治6年の太政官布達を受け、明治18年に氷川公園の名前だったようです。現在ある県営公園の中では最も長い歴史を持つ公園で、日本の公園の父といわれる林学博士本多静六が立案した「氷川公園改良計画」に沿って、公園の整備が進められたとのことです。今では日本さくら名所100選や日本の都市公園100選になっており、埼玉県で一番利用者の多い県営公園だそうです。 まずは日本庭園、そして小動物園や遊園地も見ました。
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ブチハイエナです。

埼玉県立歴史と民族の博物館はとても大きく、中の展示室は歴史・美術・民俗・特別・季節にそれぞれ分かれており、ざっとボランティアさんに説明を伺いました。
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第6室の3m以上もあるという板碑と、とっても小さな板碑が興味深かったです。埼玉県内では約27000基の板碑が確認されているとのことでした。こちらはまたじっくり伺いたいと思いました。

大宮山東光寺は大治3年(1128)頃、紀伊国(現和歌山県)熊野那智山の天台宗の寺院・青岸渡寺光明坊の僧侶が関東へ下った際、足立原に宿泊し、大宮黒塚(氷川神社の東側、現・産業道路脇)において旅人の肉を食う悪鬼が住んでいることを聞き、法力によってその悪鬼を退治し、その側に坊舎(庵)を建立し、東光坊と号して庶民救済のために開いたのがはじまり。ということで草創当時は天台宗で、「熊野の光明が東国に輝いた」ということから東光防の名がついたとのことです。その後、永享年間(1429〜1440)に梁室元棟和尚が曹洞宗に改宗して開山となったのでした。
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今、東光寺は草創以来880余年の歴史を刻んでいるとのことで現在地でのことは『新編武蔵風土記稿』巻153にもとりあげられていて、中仙道を行き来する文人墨客が足を留めた所でもあるようです。
現在、上山寿山、近代漫画の祖といわれる北沢楽天、大宮市発展の礎を築き大宮駅の誘致をした白井助七などのお墓があるようです。
今日は私たちのグループに現住職松本誠諦さんがおたまじゃくしと蛙のお話をしてくださいました。また以前伺った時は工事中だった山門ですが今日は観音様、地蔵様、菩提達磨大和尚像、お釈迦様がとっても神々しく見受けられました。
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本日の最後はお馴染みのJR大宮駅でした。JRの様々な路線をはじめ新幹線も2系統、千葉県柏までの東武アーバンパークライン、埼玉新都市交通(ニューシャトル)もあり、どうやら東京駅の次くらいの乗り入れ路線数だそうです。ということで駅の通路は年中ひどく混雑しています。

今日は20℃というウォーキングにはベストのお天気でした。結局、東光寺出発までは空模様は持ちこたえ、大いに感謝。もっとも大宮駅から川越線・東武東上線で上福岡着の時にはザァーザァー降りでしたがこれは一向にお構いなしの心境でした。
このようなウォーキングツアーは説明を伺いながらですから見慣れている風景でも「目からウロコ」ということもしばしばあります。今日もこのようなことでしたからまた見直しのためにも再訪が肝心かもしれません。
そして後日には今日いけなかった「鉄道博物館、さいたま新都心合同庁舎・ビューテラス」にもぜひ行って見たいと考えています。
posted by yunofumi at 23:58| あちこちウォーク

2019年06月01日

2019.6.1 市民大学ふじみ野 歴史再入門

近頃、我が街の市報が評判いいんです。色々な催しもあり、そろそろ地元を知ることが大切と心を入れ替えて
初めて参加しました。
1回目、5/18、約2時間坪田幹男さんの講義でふじみ野の歴史のはじまりは武蔵野台地から、それも地形の特徴が大切とのこと。
地名に𡋽(はけ)という所がありますがこれは崖線下を縫って伸びる道で水が涌いておりその上下に昔は集落ができたそうです。
ということで本日は大井武蔵の𡋽(はけ)の道を実際に歩く歩程でした。

東武東上線上福岡駅西口広場⇒URコンフォール霞ヶ丘⇒東上線沿線⇒川越市藤間⇒川越街道⇒鶴ケ岡地蔵尊⇒鶴ケ岡八幡神社⇒旧尚美音大跡⇒ホンダ学園⇒小島屋⇒イトーヨーカドー鶴ケ岡中央店・VIVA MALL⇒日清製粉グループ本社⇒ふじみ野市あおぞら学校給食センター⇒高柳建具⇒三角の浅間神社・阿夫利神社⇒市川家⇒関越自動車道カード⇒川越江川水源周辺⇒火工廠大井倉庫跡・文京学院大学⇒大井郷土資料館

9:00東武東上線上福岡駅西口広場に参加者16名が集合。坪田幹男さんはじめ「おらほう来ねか大井郷」の旗を持ったボランティアの方が4名ほど付き添ってくださいました。
川越に向かっての東上線がグングン下降しているのがはっきりわかり、いよいよ崖の上から川越方面を見て崖線を実感。
この辺りには西遺跡があったようです。今は住宅地でした。
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川越街道は現在の道と旧道もここでははっきり見えました。
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鶴ヶ岡厄除地蔵尊。
鶴ヶ丘(旧入間郡ケ丘邑)の発生を語る芝開き地蔵尊(新旧2体)で、右側は元禄期造立の地蔵菩薩念仏供養塔とのこと。
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鶴ケ岡八幡神社。
「鶴ヶ岡厄除地蔵尊」の路地を挟んだ北側、「鶴ヶ岡八幡神社」は、旧鶴ヶ岡の鎮守で祭神「誉田別命」を安置しているとのことです。今日は中を見られませんでした。
鎌倉の鶴岡八幡宮とは関係なく、地名の鶴ヶ岡村が神社名となっているようです。説明板によると、文政期(1813〜30)ごろ、元々は村の鎮守であった神社を地蔵院が管理したいと寺側から申し入があり、村と寺との間で争いが起きていたようです。
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この辺りの崖線はまだ5mほどあり、尚美音大のあった辺りは今住宅地になり、強固な壁面が支えていました。
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傍には桑の大木がいっぱい実をつけていました。
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目の前は崖下の平地が広がっています。この辺りが大塚街道も見えオオバケといわれるところようです。
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三角の浅間神社・阿夫利神社。
江戸時代、富士信仰が盛んになり、信者はこぞって富士登山を行いました。その一方で、富士山まで行けない村人のために、富士山から運んだ溶岩で富士塚を作り、そこに登って御利益を得るようになりました。この富士塚は、幕末に作られたといわれ、現在でも8月1日を「山開き」、9月1日を「山じまい」として叉木や灯籠を飾り富士塚の登拝が行われているとのことです。
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川越江川水源周辺。
こちらのお茶畑の傍から見ると青い屋根の辺りからぐっと崖線が右にカーブし、目の前の森がずっと狭山辺りまで続いているとのことでした。
ちょうどこの青い屋根の辺りが水源だったようです。残念ながら傍には行きませんでした。
この辺り東西15町(1630m)、南北8町(870m)が昔、新編武蔵風土記稿亀窪村に記されていた武蔵といわれた所だそうです。
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火工廠大井倉庫跡・文京学院大学。
火工廠とは旧陸軍弾薬工場の造兵廠のことで機関銃弾、小銃弾から陶製手榴弾(チビ弾)、風船爆弾の電気雷管・信管の部品などをつくっていた所。
造兵廠の付属施設として、大井村亀久保地区(現文京学院大学から山下ゴム(株)にかけての山林内)に約7,800坪(25,000u)の「大井倉庫」が設けられ、事務所1棟の他に、21棟の火薬庫・部品庫があったところだそうです。
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ふじみ野市立大井郷土資料館。
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大井町域の歴史、民俗、考古分野の展示を行う博物館。ふじみ野市立大井図書館と併設されたいる施設。常設展示室では近世の宿場町、大井の歴史を「みち」をテーマに原始から近代まで通史的に展示。町内の考古資料、中世・近世の文書、宿場関係の資料、民具等が見られました。

自分の住むふじみ野の地域が東境界線と北境界線の崖線で囲まれた地域ということを初めて理解しました。40年も住んでいるのに地元をよく知らなかったことを少しばかり恥ずかしかったです。崖線を降りる我が家の一番近くが権現山傍の寺尾への坂道なのですがそれもなぜこのよう地形かが理解できました。
こう考えると地名は長年伝わってきたのを大切にし、市町村合併などで安易に変えてはいけないのではないかと改めて思いました。
本日は9:00〜11:30、約11000歩、歩程約7kmはまずまずのウォーキング。その後、大井郷土資料館から自宅までウォーキングし約20000歩弱でしたから運動量としては十分。今後もこのような講座があれば参加したいと思いました。
posted by yunofumi at 17:36| あちこちウォーク