2021年07月11日

2021.7.4 さいたま彩発見ぶらり街あるき 行田市

埼玉という名前の由来のさきたま古墳のある行田です。室町時代に築城の忍城の城下町として発展し、今も足袋つくりの街なのです。

秩父鉄道行田市駅⇒栗代蔵⇒時田蔵⇒足袋とくらしの博物館⇒ぷらっとぎょうだ⇒高札場跡⇒武蔵野銀行⇒埼玉りそな銀行⇒行田郵便局⇒小川源蔵右衛門蔵・カネマル商店⇒行田八幡神社⇒そばてんぷら田丸屋⇒清善寺⇒十万石まんじゅう⇒水城公園⇒佐間天神社⇒天真山高源寺⇒行田佐間郵便局⇒県営行田佐間団地⇒イタリアン トラットリア ラノッキオ⇒日本航空館⇒元成田橋⇒埼玉県立さきたま史跡の博物館⇒前玉神社⇒金澤製菓⇒稲荷山古墳⇒古代蓮の里⇒JR行田駅

秩父鉄道は1899年(明治32年)、「上武鉄道株式会社」として設立。1901年(明治34年)熊谷〜寄居間(18.9キロ)が開業。1930年(昭和5年)、現在の秩父本線 羽生〜三峰口間全線が営業しています。1916年(大正5年)、現在の秩父市が名称変更となり社名も「秩父鉄道株式会社」に改称したとのことです。ということで2019年には創立120周年を迎えたのです。熊谷を過ぎると行田市駅でした。改札前には「足袋蔵のまち行田」の幕が掲げられていました。

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栗代蔵は1906年(明治39年)建設の元栗原代八商店の土蔵造りの足袋蔵。現在はNPO運営の観光案内所兼まちづくり情報センターに活用されており、2階には日本遺産ガイダ ンスセンターもありました。

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こちらは時田蔵。明治36年築と大正初期頃建設の2棟の土蔵造りの足袋蔵で、外観のみ見学可能。行田では珍しい表通りに面した袖蔵形式の土蔵で、日本遺産「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」の構成資産にもなっています。

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「足袋とくらしの博物館」は元、牧野本店の足袋工場。建物が使われなくなった後、2005年10月、工場の面影をほぼそのまま残した博物館として生まれ変わったのです。 博物館では展示物や元足袋職人さんによる実演を見学できます。

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「ぷらっと♪ぎょうだ」は行田市の観光物産館で令和3年4月より観光物産館としてリニューアルオープン。店内は日本遺産に認定されている行田らしい和モダンな雰囲気でおしゃれなデザインの足袋やアフリカなどの海外のカラフルな生地を使用した南河原スリッパ等地場産品をはじめ、行田の地粉を使った「行田の餃子」、奈良漬、十万石まんじゅう、わたぼく牛乳など約50社350種類の商品が揃っていました。

2020年春よりコロナウィルスによる自粛生活が続いており行田八幡神社で「花手水」がはじまったとのことです。
今では地域全体で花手水を飾る「花手水week」が始まっており本日はあちらこちらできれいな花手水をみられました。
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県道128号線の市役所前〜栄橋の860mの間に昔ながらの遊んでいる童の銅像がみられました。この間には電柱がなく、童の姿にちょっとほっこりしました。

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高札場は江戸幕府は往来の激しい町や村の入口や中心部などの目立つ場所で、法度や掟書などを記した板札(高札)を掲げている所だったのです。

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鉄筋コンクリート造地上2階地下1階建の武蔵野銀行行田支店は1934年忍貯金銀行として建設。外壁はスクラッチタイル張とし,開口部周りやコーニスには装飾を施した「カストストン」が張ってありました。

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小川源蔵右衛門蔵は酒屋の現役の石造蔵。昭和7年に建てられた商品倉庫。大谷石の壁面に取りつけられた看板と、軒の屋根瓦とのバランスが見事。現在はお隣でお店をやっていました。

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行田八幡神社は、元和・宝永・弘化の年間における行田町大火の際、再三の類焼の災禍に会い、旧記重宝等を焼失しています。天文年中に、現在の地に移り、忍城主成田下総守長泰公が社殿を修補し城下総鎮守となったようです。現在の社殿は、皇紀2650年を記念して造営が進められ、平成元年11月の竣功、平成12年には参集殿が竣功したのです。

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曹洞宗寺院の清善寺は、正式には平田山清善寺。清善寺は、1440年(永享12年)に当地の豪族成田刑部少輔顯忠(清善斎全中)により平田精舎として創建されたとのことです。成田刑部少輔顯忠は1519年(永正16年)に亡くなったのですが、時の城主成田氏15代親泰がその死を悼み、一寺を建立して平田山清善寺と称したということです。1533年(天文2年)成田氏16代長泰により再興、翌年成田龍淵寺5世宗佐和尚を迎えて忍城内に開山したのです。慶長9年には寺領30石の御朱印状を拝領したと伺いました。

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十万石まんじゅうの行田本店の建物は、国の登録有形文化財で、築100年で江戸様式蔵づくりです。平成29年には県内初、「足袋蔵のまち行田」として日本遺産に認定され、行田の美味しいお菓子を目指し、「うまい、うますぎる『十万石まんじゅう』」をはじめ、安心安全な商品が色々あります。
秩父線行田市駅より徒歩4分 旧国道125号線沿いの本店には立ち寄れず、水城公園店で色々購入しました。

水城公園。
忍城そばのお堀の跡にかっては忍沼と呼ばれる大きな沼がありそこは埋め立てられて現在は市役所や市立体育館となったとのこと。そしてその末端が「水城公園」として昭和39年に開園したのです。広さ約10.3ha。桜が200本もあるとのことですから春は見事なことでしょう。公園入口に大正時代の建物が今、VertCafe(旧忍町信用組合店舗)となっていました。
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佐間天神社(さまてんじんしゃ)の創建は、成田氏15代目忍城主成田親泰が、1491年(延徳3年)忍城築城の折、谷郷春日神社西を、城の外堀へ川の水を導水する際の取水口とし、天神坊を出口としたと伝えられています。その天神坊を「慈眼山安養院」とし、その守護神として天神社を勧請したのが始まりとのことでした。

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天真山高源寺は、忍城主成田氏ゆかりのお寺。忍城水攻めの際、石田三成が忍城に総攻撃をかけたが守将正木丹波守利英公が撃退したそうです。正木丹波守利英公は、この戦いで命を落としたすべての侍や農民の菩提を弔うため、この寺を建立したとのことです。
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昼食は「イタリアン トラットリア ラノッキオ」の行田古代米カレー、ミニサラダ、ゼリーフライのセット。古代米は古墳の形に盛り付けられておりちょっと面白い!ゼリーフライはちょっと見はコロッケと似ていますが、おからを主原料としてじゃがいもと野菜を入れたパン粉を使わない揚げ物。しっとりもちもちとした食感の美味しい一品でした。

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武蔵用水路沿いの所にある埼玉スバルの「さきたまガーデン」内に「日本航空館」を設け、「一式戦闘機 隼」ほか中島飛行機が生みだした名機の模型展示、富士重工業製で初の国産ジェット練習機「T-1初鷹」の実機も一般公開しているとのことでした。

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埼玉県立さきたま史跡の博物館はさきたま古墳公園(9基の大型古墳からなる埼玉古墳群(国の史跡)を整備した公園)内にある博物館で1969年(昭和44年)に開館したとのことです。展示施設は本館と将軍山古墳展示館からなっているとのこと。国宝展示室では「金錯銘鉄剣」(国宝)などのさきたま古墳群やその周辺の遺跡の出土品が展示されていましたが写真撮影は禁止でしたけれど実際に見て大いに感激しました。
博物館の前庭には埼玉県名由来の石碑がありました。
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前玉神社(さきたまじんじゃ)はさきたま古墳群に隣接する神社です。その昔、「幸魂神社」と書いたようです。高さ8.7m、周囲92mほどの浅間塚と呼ばれる古墳上に建てられております。ご祭神は前玉彦命・前玉姫命の二柱で、人の身を守り、幸福をもたらす神様が祀られているとのことでした。
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本殿
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前玉神社本殿に登る階段をはさむように、1697年(元禄10年)に当神社の氏子たちが所願成就を記念して奉納した燈籠がありました。高さは180p。この地を詠んだ万葉集の歌、「小崎沼」と「埼玉の津」が刻まれているとのことでした。
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前玉神社門前には金澤製菓があり古墳最中の旗が出ていましたが今日は「元祖塩あん餅(塩あんびん)・元祖甘あん餅(あまあんびん)」をお土産にしました。

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この後は古墳群公園をウォーキング。前方後円墳の二子山古墳、将軍山古墳を見た後、稲荷山古墳に行き、ここは上まで登れるようになっていました。
その後これより2kmの表示通りに歩け!歩け!で「古代蓮の里」に到着でした。
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古代蓮の里はもともとこの地そばで偶然出土した蓮の種がそれも偶然開花し、発見されてできたようです。今では天然記念物「行田蓮」(古代蓮)は行田市のシンボルです。蓮の花は4日間の命ですがそれにしても見事に咲いていました。
古代蓮会館前には世界の蓮園があり42種、約12万株を見ました。
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紅万々 
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剣舞蓮
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誠蓮
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また古代蓮会館の後ろには古代蓮池が広々とありそれは見事でした。
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行田蓮が花盛りでした。
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その後古代蓮会館の50m展望タワーに上り、眺望を堪能しました。蓮池の全体も見えましたがなんといっても広大な水田をキャンパスにした「田んぼアート」が見事でした。
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今年は6月12日にボランティアも含め総勢377名で田植えをしたそうです。本年の令和3年度デザインテーマは『田んぼに甦るジャポニズム〜浮世絵と歌舞伎〜』。ちょうど今日は見ごろの時期だったようでとても堪能しました。そして来年も見に来たいと思いました。
こうして本日は古代蓮会館前15:49のバスでJR行田駅に戻り、解散でした。

本日は上福岡〜川越〜大宮〜熊谷〜秩父鉄道行田市駅までが遠かった!そして10:15小雨の中、講師の喜多見先生、TD小松さんと共に19名が出発。途中の写真はちょっと雨降りの為、余裕もなく、あまり満足しないものが多かったのです。それでも帰宅すれば24000歩でしたから、まずは満足した1日でした。しかしです。蓮の花を充分に楽しめなかったこと、忍城を垣間見たけれど写真を写せなかったことが「残念!」という気持ちが残った一日でもありました。ということで数日後の行田市再訪を試みることにしました。

                     
2021.7.7 行田市再訪ドライブ
3日前の行田市ウォーキングは小雨の中でのウォーキング。本日は「晴天」ということで仕事をお休みし、行田市再訪のドライブです。

古代蓮の里⇒水城公園⇒十万石まんじゅう⇒行田市郷土博物館・忍城

「古代蓮の里」はとっても良かったです。展望タワーから見た蓮池や田んぼアートは本当に堪能しました。この日の蓮の写真は上記の7/4の記事の写真にしてあります。
行田市役所の駐車場に車を入れてから水城公園を散歩。芝生広場の反対側の池にラッキーなことにホテイアオイが咲いていました。
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ホテイアオイは南米原産の外来種。非常に繁殖力が強い水草だそうで、あちこちで生態系を壊していて、世界中で問題になっているらしいです。日本では、「世界の外来侵入種ワースト100」などというありがたくない称号をいただいているようです。でも、花はきれいです。8月が最盛期と聞いていましたが、今回撮影できてラッキーでした。ホテイアオイの花は普段は葉の下にいて、咲くときに一日だけ顔を出すそうです。

街をウォーキング中に行田市ならではのマンホールも見つけました。
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行田市産業文化会館のそばに貴婦人と呼ばれる「蒸気機関車C5726」が鎮座していました。
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いよいよ忍城(おしじょう)に向かいました。
世間的には映画「のぼうの城」の舞台となったところです。
「忍城(おしじょう)」は、古く文明年間(1469〜1486)に山内上杉氏配下の豪族成田親泰が築城したとされており、関東七名城【太田城(茨城県)、宇都宮城(栃木県)、唐沢山城(栃木県)、金山城(群馬県)、前橋城(群馬県)、忍城(埼玉県)、川越城(埼玉県)】の一つに数えられているようです。
1590年、豊臣秀吉と小田原北条氏の戦い(小田原の役)で、石田三成らによる水攻めを受けたけれどこの水攻めは失敗に終わっており、このことから「浮き城の町 行田」とのキャッチフレーズとなって今に残っているようです。
この戦いにより、成田氏100年の支配が終焉し、徳川家康の持ち城となりました。以後、松平氏を経て阿部氏が城主となり、184年の長きに渡って忍10万石を支配しました。明治維新でも戦火を逃れ、廃藩置県により二の丸に忍県の県庁がおかれたけれど、明治6年に競売されて解体されてしまったそうです。その後、復元された御三階櫓は現在では資料館になっていて最上階の4階は展望台でした。郷土博物館から廊下で続いていました。
まずは忍城御三階櫓のきれいな姿を見ながら浮き城の径を行くと門がありそこから入りました。
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とてもきれいな花手水がお出迎え。
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行田市郷土博物館は、忍城(おしじょう)の本丸跡地に位置する博物館で住所が本丸になっていました。多くの実物資料が展示されており、古代から現代にいたる行田の歴史と文化が見られました。周辺は城址公園として整備され、自然に囲まれた憩いの場のようでした。
また博物館の中から御三階櫓につながっており、中を見ることができました。
こうしてようやく行田市見て歩きに満足した次第です。もちろん行田市郷土博物館では続日本の100名城スタンプをいただきました。ということで本日は約10000歩。どうやら日頃の歩数を達成し満足な1日となりました。
posted by yunofumi at 12:16| あちこちウォーク

2021年07月02日

2021.7.1 ようやく誕生日を祝いました。

昨年からの新型コロナ禍に惑わされ、色々、行動に制約が付きまとっている近頃です。
それでも新型コロナワクチン接種を受けられ、やれやれの日々がやってまいりました。
ちょうど6月末に誕生日の私たちは毎年食事会をしておりましたが昨年はさすがにできませんでした。ということでワクチンを済ませた2人ですからあまり蜜でもない所でささやかにお祝いをと珍しく外食をしました。
東浦和の「一休」は本年3月にさいたま彩発見ぶらり街あるきで訪れたお店です。
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和食の「花会席」コースがおいしく十分堪能し食事の写真を撮り忘れてしまい、最後のデザートをかろうじて撮影。
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久しぶりのお出かけはうれしかったです。
ということで目の保養で。最近撮影した色々を見ていただきましょう。
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娘がプランターで育てた野菜
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もちろん野菜はおいしくいただきました。
これからも日々体調に気を付けて楽しく過ごしたいと思います。
posted by yunofumi at 14:52| ドタバタ日記

2021年06月23日

2021.6.20 さいたま彩発見ぶらり街あるき 桶川市

JR桶川駅⇒西口公園⇒埼玉文学館⇒第六川越街道踏切⇒武村旅館⇒べにっこ⇒桶川市南1丁目歩道橋⇒手打ちうどんいしづか⇒桶川駅前信号⇒島村家住宅⇒矢部家住宅⇒小林家住宅⇒桶川本陣遺構⇒中山道商店街⇒中山道宿場館⇒桶川市観光協会⇒中山道桶川宿手洗い処・お茶博士辻村みちよ顕彰碑⇒稲荷通り⇒稲荷神社⇒平屋(昼食)⇒桶川西一郵便局⇒松山以奈り道の道しるべ⇒桶川小学校⇒桶川市役所⇒泉二丁目信号⇒スーパーBENIBANA WALK⇒桶川の美女⇒農家の店新桶川店⇒愛宕神社⇒ローソン⇒富士塚⇒桶川市川田谷生涯センター・歴史民俗資料館⇒城山公園⇒川田谷信号⇒べに花畑⇒JR桶川駅

桶川市内を流れる川には荒川(あらかわ)、江川(えがわ)、鴨川(かもがわ)、芝川(しばかわ)、元荒川(もとあらかわ)、赤堀川(あかほりがわ)、高野戸川(たかやどがわ)、綾瀬川(あやせがわ)などがあります。また桶川の名前の由来(ゆらい)はいくつかあるようですが「沖側(おきがわ)」説で、「沖(おき)」を「広々とした田畑」の意とし、 その方向を意味する「沖側(おきがわ)」がなまって【おけがわ】になったのが有力。 ほかには、湿地(しっち)が多く、芝川や鴨川の水源(すいげん)があることから、「川が起(お)こる」意で「起き川(おきがわ)」とする説などがあるとのことです。
桶川市は25.26km2。昭和45年に県内31番目の市となったとのこと。もともとは69の宿場があった中山道の宿場町で紅花宿といわれた街。桶川宿は江戸から10里で6番目の宿場。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠36軒を含め、347軒の家々があったといわれています。そういえば桶川宿本陣には江戸に向かう皇女和宮が宿泊したとのことも聞きました。ちなみに埼玉県内の宿場は蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄の9宿場がありました。桶川における紅花の生産は、天明・寛政年間(1781年〜1801年)に江戸商人がその種子をもたらしたことから始まり、「桶川臙脂」(おけがわえんじ)の名で全国に知られるようになりました。出羽国・最上地方では7月に紅花が収穫されますが、気候が温暖な桶川ではひと足早い6月に収穫することができますので、「早庭(早場=はやば)もの」として重宝されたのです。幕末には出羽国に次ぐ産地になっていました。明治時代に化学染料の導入で、紅花産業は衰退、現在では『桶川祇園祭り』などに全盛期の繁栄を偲ぶのみとなっているのです。ちなみに、紅花の花を摘んで発酵、乾燥させたものが、紅色の染料、口紅になり、京、江戸などに運ばれたのです。そのため米は1反あたり平均2両で取引されましたが、紅花はその倍の4両にもなり、桶川の繁栄の土台となったのです。

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桶川駅すぐそば若宮1-5にあるのが西口公園。ここには四つのテスト像がありこれは桶川ロータリークラブ設置で大切な約束が四つ書かれていました。
1真実かどうか 2みんなに公平か 3好意と友情を深めるか 4みんなのためになるかどうか
今から60年以上も前の大恐慌のさなか、一人のロータリアンが4項目からなる簡明な倫理指針を考案しこの指針は、窮地にあった彼の会社を救うのに役立ったとのことです。この指針が表現していた内容や信条はまた、ほかの多くの人たちに対しても、倫理的羅針盤を提供することになったのです。今日では、ロータリーの基本理念の一つとなっているとのことです。

また喜多見先生からは埼玉のミッドエリアを知ってほしいと「IKOKA」(いこか)を教えていただきました。 埼玉ミッドエリア「IKOKA」(いこか)は、埼玉県の中央に位置する4市1町(「I」=伊奈町、「K」=北本市、「O」=桶川市、「K」=鴻巣市、「A」=上尾市)からなる地域の総称(造語)で都心へのアクセスが良く、自然に恵まれ、住環境にも優れているため子育て世代の生活満足度が高く、住み替えを考えている人に注目のエリアなのです。

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さいたま文学館は、文学に関する資料の収集、展示、調査研究や文学の振興を図るために、埼玉県によって設置された施設。開館は1997年(平成9年)。埼玉県に縁のある文学作品や文学者の作品や資料を収蔵するとともに文芸講演会なども行われているとのことです。桶川市民ホールと同じ建物にある複合施設で、一体的な運用ということでした。埼玉ゆかりの文学者として田山花袋や武者小路実篤は知っていましたが安藤鶴夫、長谷川かな女、永井荷風は知らなかったのでまた作品を見てみようと思いました。

桶川はさすがにベニ花の街。マンホールにも登場です。
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武村旅館。
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JR桶川駅東口から桶川駅通り商店会を進み5分ほど、中山道を右折したところに建つ登録有形文化財の旅館。明治時代に板橋宿から移転してきた旅館で、現在もビジネス旅館を営んでいるとのことでした。建物内部を見学することはできませんでしたが、1852年建築の木とブリキの外観と瓦屋根、格子窓の建物は歴史が感じられ趣がありました。旅館と書かれた大きな看板が目印でした。

べに花まんじゅうは良質な小麦から作られた小麦まんじゅうに、べに花の色素を練り込みほんのり黄色みがかった皮になっていました。 こしあんやつぶあんをその皮で包んでいます。本日は鰍ラにっこさんのお饅頭を本日の埼玉銘菓としていただきました。

島村家住宅土蔵。
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武村旅館から旧中山道を北に150mほど行った右側にありました。ここも国登録有形文化財となっているとのことでした。島村家住宅土蔵は天保の頃の建物だそうです。中が資料館になっているようですが、今日は見られませんでした。

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矢部家住宅は、中山道に面した土蔵造りの店蔵と、その奥に続く塗屋造りの住居、土蔵造りの文庫蔵、切妻造りの勝手場他の建物で構成されているようです。矢部家は屋号を「木半」(木嶋屋半七)といい、主には穀物問屋を営んでおりまた紅花の商いも行い、桶川の稲荷神社境内に残る「紅花商人寄進の石燈籠」(市指定文化財)に刻まれた24人の紅花商人の中に名を連ねていました。現存する建物の中で最古のものは中山道から最も奥に位置する土蔵造りの文庫蔵で、棟札から明治17年の建立であることがわかっているようです。この土蔵は、屋根の鬼瓦の上から鋳鉄製の棘状の棟飾りが出ているのが特徴。これは「烏」または「烏おどし」とも呼ばれ、鳥よけと言われており、周辺地域でも数少ない珍しい意匠だそうです。中山道に面したこの土蔵造りの店蔵は、矢部家第6代当主の五三郎氏(安政4年〜大正9年)が明治38年に建立。桁行五間、梁間三間、黒漆喰塗りの重厚な構えで、棟札には川越の「亀屋」建築などに係わりの深い大工や左官の他、地元の大工、鳶が名を連ねているようです。桶川宿で現存する土蔵造りの店蔵はこの矢部家一軒のみとのことでした。

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小林家住宅はもと旅籠の建物を,材木商が幕末より店舗に用いてきたようです。切妻造,桟瓦葺,平入の2階建で,正面に下屋庇を設ける。2階の軒は出桁造で,2階開口部は横一杯に繊細な格子を建て込んでいます。街路に面して建っており,かつての宿場の面影が伝わっています。

桶川本陣遺構。
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桶川宿府川家本陣は、埼玉県内の中山道筋では、唯一現存する本陣。本陣とは、公家や大名、幕府の役人などが宿泊・休憩するため江戸時代に設置された宿のこと。一般の旅籠と違い、門と式台のある玄関の設置および畳が一段高くなった「上段の間」を持つことが格式として認められていたようです。また、宿場の政治の中心的機能も担い、その補佐役としては脇本陣がありました。本陣の宿泊は身分の高さによって勅使・院使・宮門跡・公家・大名・旗本などの優先順位があり、宿泊客が多い場合には脇本陣がかわりに使われたようです。桶川宿に本陣が置かれたのは、寛永年間の上半期の頃。本陣職は代々甚右衛門を襲名した府川家が勤め、問屋名主役として宿場の運営にもあたっており。脇本陣は内田家と武笠家がそれぞれ勤めたようです。府川家は、本陣職のほかに問屋名主役(町村長)、代官補佐や寄場組合大総代(地域警察署長・簡易裁判官)を代々勤めたのです。

中山道宿場館・桶川市観光協会。
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桶川市の宿場情報や市内の史跡・観光情報の案内がありました。中山道情報コーナーでは、日本橋から大宮宿、桶川宿、埼玉県内の最後の宿場本庄宿まで、地図を用いて紹介。
中山道桶川宿散策コーナーでは、中山道 桶川宿周辺の文化財や史跡、寺社などスタッフ手作りのマップと写真で紹介。 かなり山盛りで色々おいてありました。
そうそう入口にあったべに花の鉢からギザギザのとげ葉は従来からの品種、丸葉は改良種とわかりました。

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中山道桶川宿手洗い処の案内通りに入ると石碑「渋味」と書かれた「式紙塚顕彰碑」がありました。日本最初の女性農学博士で緑茶の「ビタミンC」や「カテキン」を発見した桶川生まれの辻村みちよの功績をたたえた顕彰碑です。

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桶川稲荷神社は、嘉禄年間(1225-1227)に創建で、桶皮郷(現在の桶川市と上尾市にまたがる地域に比定される)の惣鎮守として奉斎したとのことでした。明治6年村社に列格、明治40年桶川宿に鎮座していた宿の鎮守神明社・字西ノ裏白山社・字浜井の若宮社・字牛久保の稲荷社を合祀、その後雷電社・浅間社・八雲社(市神)を合祀したようです。

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稲荷神社の力石は、長さ1.25m、厚さ0.4m、重さ610kgの雫のような形の楕円形で、力比べに使った力石としては日本一重いとのことです。表面には「大般石」の文字と、嘉永5年(1852)2月、岩槻の三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたこと、続いて、ともに当時の桶川宿の有力商人であった石主1名と世話人12名の名が刻まれているとのことです。

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稲荷神社拝殿の正面には一対の大きな石燈籠がありました。かつて中山道の宿場町だった桶川宿は、染物や紅の原料となる紅花の生産地としても栄えており、この石燈籠は、桶川宿とその周辺の紅花商人たちが、桶川宿浜井場にあった不動堂へ安政4年(1857)に寄進したものとのことでした。明治時代となり、神仏分離策などの動きの中で、やがてこの稲荷神社へ移されたとのことです。燈籠には紅花商人中として計24人の紅花商人の名が刻まれており、桶川のほか、上尾や菖蒲の商人の名前もあるのです。かつての紅花商人たちの繁栄を伝える貴重な文化財です。これがきっかけで今また桶川をべに花盛り上げようと機運が高まってきているとのことでした。

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平屋では昼食時にべに花まんじゅうもいただきました。

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松山以奈り道(まつやまいなりみち)の道しるべは桶川小学校の敷地内にありました。これは、東松山市にある箭弓稲荷神社への道を示すもので、中山道桶川宿の北のはずれから分岐していた「松山道」の入り口に、1836年(天保7年)に建てられ、日本橋本小田原町の魚市場の人々が箭弓稲荷神社への参拝の目印となったようです。このことがわかるのは、この道しるべには「松山以奈り道(魚)本小田原町」と刻まれており、「以奈り」とは「稲荷」の当て字で、魚の字が図案化されたとても昔としてはユニークな道しるべなのです。

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桶川の美少女 大工 岡野靖夫がコンクリを固めて作った手作りの作品とのことでちょっと怖いですね。

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愛宕神社は百日咳の守護神といわれ、昔から婦女子の参拝が多く、庭に大きなイチョウがあり、その木の枝に、乳の形をしたものがあり、お参りすると乳が出るようになると言われていたようです。

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川田谷の富士塚は地元では浅間様と呼ばれ、大正末年まで毎年7月1日の山開きの日には先達を中心に信者が集まったということでした。

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桶川市歴史民俗資料館は、川田谷生涯学習センター内にある市立の博物館。桶川の歴史と文化を今に伝える文化財の収集・保管及び調査研究、さらには公開普及活動を実施する地域文化財保護拠点施設とのことで、本日は館長さんが説明をしてくださいました。

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JR桶川駅から約3.5kmに位置する城山公園は、14世紀に築城された東西120m南北110mの平山城の「三ツ木城」の城跡横に造園された公園。「三ツ木城」は、太田氏岩槻城の支城のひとつとのことです。本日はそこまで見に行きませんでしたが、現在の城址はこんもりとした樹木に覆われ、小高い丘となっていて少しはお堀らしきものが見られる程度とのことでした。公園南側に約300本の桜が見られましたからきっと春のお花見に良いと思いました。

べに花畑。
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昔、染料や口紅として使われたべに花は江戸時代の終わり頃、「桶川臙脂(おけがわえんじ)」の名で全国的に有名でした。 現在、桶川市では、マスコットキャラクター『オケちゃん』をはじめ、「べに花」をシンボルとしたまちをづくりを行っているとのことです。昨年同様、コロナ禍でべにばな祭りは中止とのことです。そこで桶川市歴史民俗資料館そばのべにばな畑を見せていただいた後、お花を2枝お土産に本日の行程が終了となりました。お陰様で家族でべにばなを楽しみました。
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本日は思いがけず青空の元、お馴染みの喜多見先生、TD林さんと19名の仲間が参加。AM10:00〜PM3:00前までのウォーキングで最後はバスで駅に戻り、ちょっと元気が回復して帰路につきました。気温も上昇、日差しが強く、約2万歩超はちょっときつかったです。本日のお土産だった「べに花まんじゅう」はちゃっかり昼食時にいただいてしまい、「べにばな」のみのお持ち帰りでした。でも家族には好評でヤレヤレでした。
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2021年06月11日

2021.6.6 さいたま彩発見ぶらり街あるき 蕨市

JR蕨駅⇒ぶぎん通り商店会⇒蕨駅前郵便局⇒武蔵野銀行⇒駅前通り⇒蕨ピアロード⇒パンの樹⇒COUTURE KAWAMURA⇒蕨高校通り⇒蕨公園⇒北町コミュニティセンター⇒北町コミュニティ通り⇒金亀山三学院⇒萬寿屋⇒近江屋⇒四国屋⇒蕨本陣跡・蕨市立歴史民俗資料館⇒蕨市立歴史民俗資料館分館⇒蕨町道路元票⇒朝日湯⇒甘露山長泉院⇒和楽備神社⇒蕨城跡⇒Coffee Bell⇒要害通り⇒金峰山宝樹院⇒蕨市民公園⇒塚越稲荷神社⇒機神社⇒JR蕨駅

蕨市は人口約75000人、面積が埼玉県内で一番小さい市とのことで人口密度は14679人/1km2 。蕨の地名は植物の「蕨」が由来、または「藁の火」から名付けられてとの説があるようです。

JR蕨駅は明治26年に日本鉄道の駅として開業。現在は京浜東北線が停車する駅。昔は宿場としても栄えていた証拠でしょうか。「蕨駅開設記念碑」が階段を降りたところにありました。
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駅前広場の「若き日」像は2人の裸婦像で蕨画塾の彫刻家長谷秀雄さん作で1982年蕨青年会議所が設置したということでした。
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最近、蕨市が舞台の女子サッカーアニメ「さよなら私のクラマー」が映画にもなったそうです。このアニメに描かれているのがぶぎん通り商店会。ぶぎんとは1952設立の武蔵野銀行の略称。
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街中で見られた「サヨナラ私のクリッパー」のポスター。
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「パンの樹」はあんドーナツと小倉あんぱんがお勧めとのことでした。本日は残念ながらお休み。

COUTURE KAWAMURA(クチュールカワムラ)は蕨双子織(わらびふたごおり)を中心にオリジナルバッグや洋服を販売していました。
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蕨双子織はかって機織り(はたおり)の町として栄えた宿場蕨で江戸時代末期にファッショナブルな色彩と縦縞柄から人気を博した綿の着物地。歴史を振り返り2004年に文献を元に復元され現在の蕨市の地域資源となったのです。細い2本の糸をより合わせた双糸を使用して織られる双子織は超高度密度で滑らかな手触りと綿の素朴さ、美しい縦縞柄が特徴の綿織物なのです。

蕨市は小さな市でコンパクトシティと言われているそうですが公園は多いようです。この蕨公園は遊具などもありますが「わらびりんご」の木が見られました。わらびりんごは日本一早く6月には実をつけるとのことで今日もいくつかの実を確認できました。
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わらびりんごは錦町の農家の故・吉澤正一さんが約20年がかりで研究・開発した極早生種。吉澤さんがリンゴ作りを始めたのは昭和38年のことでリンゴの種を庭にまくと、約200本が発芽。そのうち1本を育て始めると数年後に白い花が咲き、その2年後、6月末に赤い実をつけ「突然変異では」と直感した吉澤さん。「リンゴのない季節に病人や子どもに新鮮なリンゴを」と研究を重ねました。そして昭和56年。ついに市の名前を付けた「わらびりんご」が新品種登録されたのです。
4月上旬、桜の花と入れ替わるように、白い可憐な花を咲かせ、満開から60日程度の6月下旬にはその実を赤く染めるのです。直径7p前後、重さ150〜200gほどの小ぶりで酸味のきいた味は、ジュースやジャム、アップルパイなどにして味わうのが一番とのことです。
現在は蕨市内のあちらこちらや「わらびりんご公園」でこの「わらびりんご」の木が見られまた収穫は皆さんですると伺いました。

金亀山極楽寺三学院(ごんきさんごくらくじさんがくいん)は新義真言宗智山派(しんぎしんごんしゅうちざんは)の寺院。平安時代の創建で蕨市内最大の寺院。
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本尊の木造十一面観音菩薩立像があるとのことです。
焔魔堂です。
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三学院梵字馬頭観音塔です。
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六地蔵と目疾地蔵です。
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蕨宿関係墓石群です。
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境内にはハスの花も咲いていました。
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はね橋。
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蕨宿は周囲を用水堀で囲まれていたため家の裏手に「はね橋」を設けて出入りしたとのことです。はね橋を写真のように引き上げると家への出入りができなくなるので防犯にはよかったようです。

天保年間創業、「萬寿屋」は本手焼きの煎餅屋です。
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歴史を守りながら、新しい感覚も取り入れているとのことで薄めで食べやすい、しょうゆ味の懐かしい煎餅はとても手ごろでしたからお土産に買い求めました。
たまたま店頭には今朝開花したサボテンが歓迎してくれました。
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中山道沿いには「景観建築物」ということで古い建物が見られました。近江屋です。
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昼食は四国屋で天ぷらとうどんのセットをいただき、デザートは甘酸っぱい「わらびりんご」のシャーベットでした。
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蕨本陣跡は今、蕨市立歴史民俗資料館になっていました。
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ちょうど6/5から「さよなら私のクラマー」展が開催中でした。
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奥の方では従来の展示がありました。
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またすぐ近くに明治時代の織物買継商の建物だった蕨市立歴史民俗資料館分館もありました。
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立派な庭園もあり、また座敷には話題の渋沢栄一さんの書が飾られていました。
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今日の道中は中山道沿いのルートが多いです。そういえば江戸時代に江戸と京都を結ぶ街道は「中山道」と表記されており、たまに「中仙道」も使われているようです。
途中で蕨町道路元標を見つけました。
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甘露山長泉院(ちょうせんいん)は」真言律院宗霊寺派の寺院で1753年(宝暦3年)に創建され檀家を持たない祈願寺。ご本尊は大威徳明王像(だいいとくみょうおうぞう)とのことです。梵鐘は通称「おしゃみの鐘」といわれています。梵鐘には乳のかわりに梵字が鋳出され、撞座を4個持つ特徴があるようです。なぜかこの梵鐘は本堂の屋上にありました。

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和楽備神社(わらびじんじゃ)は1911年(明治44年)に蕨にあった18の鎮守社を合祀してできた神社で万葉仮名の表記で「和楽備神社」と名付けられたとのこと。
合祀以前は八幡神社が鎮座し、中世に蕨を所領とした渋川氏が蕨城の守護神として勧請したと伝えられているのです。
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和楽備神社のすぐ隣に蕨城跡がありました。
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またすぐそばに「成年式発祥の地記念像」の碑がありました。
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蕨市の成年式は、終戦の翌年である昭和21年に、日本中が敗戦による虚脱状態にある中で、「次代を担う青年達を、まちをあげて激励しよう」と開催されたもので、それが全国に広がり、 2年後の昭和23年、国民の祝日に関する法律で「成人の日」が制定され、国民的な行事として定着したとのことです。この像は市制施行20周年と成人の日制定30周年を記念して昭和54年1月15日に城址公園に建立されたのです。

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要害通りは戦国時代、蕨城を守る要害の地で、今では住宅街の中で緑と水を湛えた憩いの場、「要害通りせせらぎ遊歩道」として国交省の「生活の中にいきる水辺三十選」にも指定されているとのことです。

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金峰山宝樹院(きんぶさんほうじゅいん)は臨済宗の寺院。開基は渋川氏ということから創建は中世以前のようです。ご本尊は地蔵菩薩像。
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裏手の墓所には1567年(永禄10年)に上総国(かずさのくに)の三舟山合戦で戦死した蕨城主渋川公とその夫人を祀った石碑は夫妻の250数年忌に造立されたようです。

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塚越稲荷神社(つかごしいなりじんじゃ)は1500年頃(明応年間)に創建のようです。社殿が約6mの塚の上にあり名前が塚越となったようです。
境内に機神社(はたじんじゃ)がありました。
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こちらは蕨の双子織などの織物業を発展させた5代目高橋新五郎と妻いせうを「機神様(はたがみさま)」として祀っているとのことです。反物や糸取りの道具もおかれており、木綿糸がみられました。こちらの前身は関東大権現社の神像である徳川家康座像もともに祀られているとのことでした。
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正観世音菩薩のお堂もありました。

本日はお馴染みの喜多見先生、TD小松さんと19名の仲間がAM10:00〜PM3:00までのウォーキングでした。スタート時は曇天でしたが昼食前にポツリ、ポツリ。午後はさすがに合羽を着ましたがこれが蒸し暑い!といいつつまあ、無事に終了。帰宅してみれば2万歩超ですから、まずまずの成果!
お土産はわらびもちと手作り煎餅、それに蕨双子織のサンプルと塚越稲荷神社からいただいたアマビエのお守り。
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ということで皆様、また次回もお会いしましょう。
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2021年05月14日

2021.5.9 さいたま彩発見ぶらり街あるき 久喜市

JR久喜駅⇒米津氏御陣山神社⇒天王院⇒八雲神社⇒光明寺⇒御嶽神社⇒甘棠院⇒甘棠院史跡公園⇒古久喜南歩道橋⇒東武伊勢180号踏切⇒葛西用水路⇒下河原橋⇒コスモスふれあいロード⇒上河原橋⇒河原神社⇒すぎのや本陣鷲宮店⇒東鷲宮駅入口信号・県道さいたま栗橋線⇒西大輪神社⇒霞ヶ関橋⇒郷土資料館⇒霊樹寺⇒大酉茶屋わしのみや⇒鷲宮神社・光天之池⇒東武伊勢崎線鷲宮駅

JR久喜駅。
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久喜市は「風の見える街」がキャッチフレーズのようです。駅前には風に吹かれている女性像のモニュメントがありました。
JR久喜駅にはJR東日本の東北本線と、東武鉄道の伊勢崎線の2路線が乗り入れており、また東武鉄道伊勢崎線の乗換駅でもあります。JRは1885年(明治18年)に開業、1899年(明治32年)には東武鉄道駅が開業とのことでした。歴史の長さにびっくりです。

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街のウォーキングが始まるとすぐ電柱がなく、路肩には大きなボックスがほとんど2個組で鎮座。側面には大きく「久喜の提燈祭り」とあり勇壮な神輿を担いでいる写真がありました。お祭りはこれから伺う天王様の行事で町を挙げての行事とのことでした。

御陣山神社。
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広い公園と小高い丘の上に神社がありました。わかっているだけで徳川16神将と言われた米津常春(よねきつつねはる)、米津家初代で2代目徳川秀忠に仕えた米津田政(よねきつたまさ)、米津家2代で大阪定番の大名だった米津田盛(よねきつたもり)、そして武蔵国久喜藩初代藩主米津 政武(よねきつ まさたけ)がここに陣屋を構えていたようです。

天王院。
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本山は山梨県に所在する広厳寺で、1523年(大永3年)に妙鑑によって開かれた曹洞宗の寺院。過去には境内にお籠堂が所在し、清久地区・江面地区などから老人が集い、飲み食いをして楽しむことも行われていたとのことです。

八雲神社。
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八雲神社は天王院の境内に所在する神社で旧久喜町の総鎮守。元は天王院の別院として祭られ「天王宮」と称されていたのが、明治初期の神仏分離によって1873年(明治6年)3月に祭神は天王院より氏子へ移され、その際「天王宮」より「八雲神社」へと改称されたようです。ということで7月12日・18日に行われる勇壮な久喜の提灯祭り・天王様はこの八雲神社の祭典なのです。

光明寺。
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薬師如来は薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)ともいうようです。光明寺に薬師如来がまつられたのは、今から約1300年前のこと。そのとき、この地に流行していた疫病を鎮めるために、徳の高い僧侶、行基が、久喜の地の一番の高台に薬師如来を安置し、疫病退散を祈願したのです。行基は、孫悟空が付き従った三蔵法師のモデル、中国の唐代の三蔵法師玄奘の愛弟子道昭の、そのまた愛弟子とのことです。彼の安置した薬師如来の霊験(れいけん)によって、疫病は無事おさまったと伝わっております。そこでこの地に光明寺が建てられたということでした。もちろん薬師瑠璃光如来は秘仏でしょうから見ることができませんでした。
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1873年(明治6年)に近代的な学校制度の導入と共に「久喜学校」が光明寺に開設され、1913年(大正2年)に小学校新築移転となるまで光明寺は久喜の人々の学び舎となっていたようです。
光明寺の墓所にある中島撫山の墓。
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幕末から明治期の教育者である中島撫山は、1873年(明治6年)に私塾「幸魂教舎」を開くなど、埼玉東部地域の教育に大きく貢献した方です。光明寺にあるのは撫山の神道式の墓で、撫山の妻子や兄弟とともに葬られているとのことでした。

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この御嶽神社(おんたけじんじゃ)は1887年(明治20年)に南埼玉郡久喜本町(明治合併後、南埼玉郡久喜町大字久喜本字荒鎌)に祀られたのが始まりとのこと。
境内施設として本殿、鳥居、「御嶽教 寿幹教会 御嶽神社」と彫られた標柱、樫の木(御神木)、灯籠、狛犬が見られました。

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甘棠院(かんとういん)は、鎌倉にある臨済宗(りんざいしゅう)円覚寺(えんがくじ)派の寺院。甘棠院の総門を入ると、中門前面から院の東西に100m、南北に250mの空堀が見られました。1925年(大正14年)には「足利政氏館跡及び墓」として埼玉県指定史跡となったとのことでした。
足利政氏は、父の死後、明応6年(1497)古河公方と称しいったんは小山(栃木県小山市)に移ったあとここ甘棠院に隠居したということです。1519年(永正16年)館を寺院として永安山甘棠院と称し開山したとのことでした。
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甘棠院の境内に「享禄四年七月十八日甘棠院殿吉山長公大禅定門」の銘を刻んだ足利政氏の五輪塔がありました(享禄4年は1531年)。

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甘棠院史跡公園は、甘棠院の北側にあった養護老人ホームの移転に伴って跡地を整備して作られた公園。園内には、戦国時代に活躍した足利政氏が隠退した館(甘棠院)から続く堀の一部が残っている他、雑木林や竹林、梅の古木などの自然がそのまま残っていました。竹藪には鷺が巣作りをしており優雅に飛んでいる様子も見られました。

鷲宮地区の中央を流れる葛西用水路沿いの両岸約10kmを整備し、春は「ポピー」、秋は「コスモス」が咲き誇るとのことでした。
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実際にはポピーはあと1週間ほどで満開かもしれなかったです。
途中の下河原橋、上河原橋を過ぎるあたりには「コスモスふれあいロード」の案内もありました。

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河原神社はJR東北本線『東鷲宮駅』から西へ300mに鎮座。県道3号を越え、「すぎのや」脇の路地を入り葛西用水沿いにあります。以前は白山神社といわれたようで、2000年代になると河原神社と表記されたようです。

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昼食は「すぎのや本陣鷲宮店」のレディスセットでした。イヤー!量が多くて満腹!!

西大輪神社(雷電神社)。
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御祭神は別雷之大神というようです。向かって左の石灯篭は文化12年の作とのこと。例祭日は7月25日ころの日曜日で獅子舞が有名。五穀豊穣と悪疫退散の願いが奉納されるようです。
海のない埼玉県ですが大落古利根川((おおおとしふるとねがわ)や会の川(あいのかわ)などがありそれらにより河畔砂丘ができたようです。久喜市には西大輪砂丘と高柳砂丘が形成されており、ここが西大輪砂丘だそうです。

郷土資料館。
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もともとは平成10年に鷲宮町立郷土資料館として開館。
平成22年に久喜市、菖蒲町、栗橋町及び鷲宮町の合併により、久喜市立郷土資料館となったとのことでした。歴史的資料の収集・保存や調査研究を生かした企画展・特別展や各種講座等が盛んに行われている様でした。

霊樹寺には、平安初期の一木造りの伝統を受け継いだ釈迦如来の案内がありましたが実物は見られませんでした。また参道の両側に本堂側から左右で16体の像がありました。
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鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)は「関東最古の大社」、「お酉様の本社」と称され天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命を祭神としているようです。
入口には大鳥居があったようですが老朽化で倒れたようで基礎だけが見られました。
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拝殿。
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本殿。
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拝殿手前には光天之池がありました。
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大酉茶屋田田(おおとりちゃやでんでん)。
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鷲野宮神社前の御休み処。京都で修業した店主が食材にもこだわり体と心に優しい食を提供しているようです。2007年12月2日にアニメ『らき☆すた』にて、旧・鷲宮町内が舞台モデルの一つとなったことが縁となり聖地といわれているようです。

本日はカラフルマンホールを2つ見ました。
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こちらは久喜駅西口にありました。久喜市の合併10周年を記念して製作された下水道マンホール蓋。描かれているのは久喜市商工会マスコットキャラクター「来久ちゃん」です。「来久ちゃん」は関東一といわれる久喜の「提燈」と市の木「イチョウ」がモチーフ。「LIKE CHAN」とあるように「らいくちゃん」と読むらしいです。
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鷲宮神社そばの路上にありました。
こちらも久喜市の合併10周年を記念して製作された下水道マンホール蓋。描かれているのは「らき☆すた」の主要人物「柊つかさ」と双子の姉の「柊かがみ」。右下に刻まれている文字は「ⓒ美水かがみ/KADOKAWA」。『らき☆すた』は、美水かがみによる4コマ漫画とそれを元にしたゲーム、アニメ、小説作品で、柊姉妹の父親が宮司を務める「鷹宮神社」のモデルが「鷲宮神社」だそうです。

本日の喜多見先生からのおすすめ埼玉の逸品は島田菓子舗の「いがまんじゅう」。
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いがまんじゅうはこしあんの饅頭の周りに赤飯がまぶしてあるのが特徴で、赤飯をまぶした姿が栗のイガのように見えることから名づけられたと言うことです。

本日は喜多見先生・TD池谷さんの引率で18名が参加。天候はほぼ晴れでしたが昼食前後にパラパラ雨が降りちょっと慌てました。しかし全体的にはのんびりゆっくり約21000歩、約10kmを完歩できたことに感謝!感謝!!
今日は暑かったので郷土資料館の見学をほどほどにそばのコンビニに駆け込んで今年はじめてのガリガリ君を食しました。本当に暑さがすごかったのです。
本日のもう一つのびっくりはスタート前集合時に東海道五十三次でご一緒したNさんとバッタリ!思い起こせば東海道五十三次が2013年10月に完歩していますので、まったく懐かしい!!ということで解散後、久しぶりにお茶をし、またの再会を約束しました。またしても次回も楽しみなのです。
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2021年05月05日

2021.5.2 さいたま彩発見ぶらり街あるき 草加市

草加市はすぐ隣がもう東京という位置にあります。本日は自宅から武蔵野線の乗り換え、その後東武スカイツリーラインで谷塚駅にやっと到着。思ったより住民も多い様子で町全体がきれいな感じでした。

東武スカイツリーライン谷塚(やつか)駅⇒富士浅間神社⇒火あぶり地蔵尊⇒今様草加宿⇒浅古家地蔵堂⇒草加市役所⇒道標「葛西道」⇒八幡神社⇒藤城家住宅⇒草加駅⇒草加神社⇒氷川中公園⇒ARK PLAZA「夢や芭蕉亭」⇒大川本陣跡⇒清水本陣跡⇒おせん茶屋⇒草加市立歴史民俗資料館⇒東福寺⇒草加宿神明庵⇒神明宮⇒草加せんべい発祥の地「おせん公園」⇒札場河岸公園⇒草加松原⇒松原綾瀬川公園⇒草加市伝統産業展示室⇒松原大橋⇒獨協大学前(草加松原)駅

東武スカイツリーライン谷塚(やつか)駅。
この路線は以前、東武鉄道伊勢崎線といったのです。1925年(大正14年)開業の駅と伺ってびっくり。なぜってこの草加は日光街道の2番目の宿場ですから当然か!と納得。
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谷塚駅東口広場にハープ像がありました。草加市は1993年(平成5年)「音楽都市宣言」をし、音楽振興推進中だそうです。

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同じく谷塚駅東口広場にあるモニュメント。タイトルは「循環」で永遠に繰り返される自然の営みと人の営みを表しているそうです。

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富士浅間神社は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)をお祀りしています。
現本殿は1842年(天保13年)に再建されたとのこと。本殿の建物は、前面に軒唐破風(のきからはふ)、千鳥破風(ちどりはふ)を配し、随所に彫刻を配したものでした。手洗い石には几号(きごう)水準点がありました。
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几号(きごう)水準点とは明治初期に土地の高低測量を行うために設けられた基準となる測量点で、イギリス式の測量法に従って漢字の「不」に似た記号を不朽物(恒久的に残るであろうもの)に刻印したり、「不」を彫った標石を埋めて水準点としたのです。

冨士塚。
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富士山を信仰する人々の組織、冨士講は富士行ともいわれ富士登山の代わりに誰もが身軽に登山できるように築かれた富士山を、富士塚としているのです。この富士塚は高さ約4m、横幅10.4m、奥行8.6mとのことです。

火あぶり地蔵尊。
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地蔵堂のある所は昔の処刑場跡だそうです。昔々、借金まみれの貧しい母娘がいてその母が病に倒れたことから娘としては大金持ちの奉公先に看病したいと申し出ても認められず、思い余って奉公先に火をつけたそうです。当時、火つけの罪は「火あぶりの刑」と定っていましたので、娘はこの地で処刑されたのです。でも村人たちはこの哀れな罪人の霊を慰めるために処刑された場所にお堂を建立し、地蔵を安置して供養したとのことでした。

今様草加宿。
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江戸時代初期、日光街道2番目の宿場町として誕生した「草加宿」を旧街道の風情、街なみ、川なみが残っているうちに、再生していきたいと街づくり活動が行われているのです。写真左側が旧日光街道とのことです。

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草加市役所傍にある浅古家地蔵堂は別名子育て地蔵。言い伝えでは、浅古家わきを流れていた堀が増水したときに上流から流されてきた地蔵を、浅古家先祖が救い祭ったところ、子宝に恵まれたということで地蔵堂があるようです。

道標「葛西道」。
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ここは草加宿から葛西道が分岐していた場所。葛西道はここ草加宿と東京の葛西方面を結んでいた道で、千住宿・越谷宿間の日光街道の新道が敷かれる前から通じていた古道だということでした。

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八幡神社はほぼ草加市の市街地の中心部に社殿を構える神社。江戸時代の正徳年間に神主長太夫が、八幡の神体を稲荷社に合殿としたようです。
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社殿には、草加宿七福神の恵比寿が祀られまた、江戸時代に造られたという高さ83cmの大型の雌雄一対の獅子頭が社殿内に鎮座していました。

藤城家住宅。
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旧日光道中に面して建つ「店舗」は木造2階建ての桟瓦葺(さんがわらぶき)。2階部分は開口部を障子と雨戸、縦格子とする座敷で、1階部分は大きく持ち出した庇(ひさし)部分を巧みに店舗部分に取り込み、畳敷の張り出た売場は商家の佇まいそのものです。外観は主屋根の軒先の出桁造(だしげたづくり)と縦格子が往時の風格を伝えています。

おせんさん。
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日光街道沿いに栄えた草加宿の茶屋でおせんさんが当初はお団子を作って売っていたところお団子の次の新製品として武者修行の侍から教えられてお団子をつぶして天日で乾かし焼きもちを作ったのが草加せんべいの始まりだったようです。
そして今、草加駅東口に「おせんさん」が見られるのです。
さらにちょっと離れて草加せんべいをおいしそうに食べている「あこちゃん」がいます。
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実はすぐ近くに「アコス」という商業ビルがあり、それから命名したそうです。
像の作者は草加市生まれの彫刻家、麦倉忠彦氏とのことでした。

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草加神社(旧社名・氷川神社)は、安土桃山時代(天正年間頃)に、武蔵國三之宮なる大宮氷川神社の御霊を分け戴きたことが元とのこと。享保2年神階正一位の宣旨を受け、明治6年村社に列し、同40年政令により草加町内の諸神社十一社を当社に合祀し、同42年社号を氷川神社改め、草加神社となりました。現本殿は天保年間の造営とのことです。その後定期的に本殿周囲の玉垣設置、手水舎、拝殿補修、拝殿屋根葺き替え、神輿倉の造営など行っているとのことです。本殿は二間社流造りで、多彩な彫刻がありました。

草加宿には2軒の本陣があったことから旧日光街道に面して大川本陣と清水本陣の石碑がありました。
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草加市立歴史民俗資料館。
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当館の建物は、2008年(平成20年)、国の登録有形文化財に登録された歴史ある建物。もとは、1926年(大正15年)、草加小学校西校舎として、建築家・大川勇氏の設計により建てられた、埼玉県初の鉄筋コンクリート(RC)造校舎とのことです。その後草加小学校校舎としての利用は1979年(昭和54年)で終了し、その後現在の資料館になったとのことでした。
沢山の展示の中でも綾瀬川から出土した丸木船が印象的でした。本日は2階で端午の節句展が開催中でした。
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東福寺は草加宿の開宿に尽力した大川図書(おおかわずしょ)が1606年(慶長11年)に創建。本堂・山門・鐘楼は江戸時代後期の建物。山門や欄間に彫刻がありました。墓処には大川図書の墓がありました。

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草加宿神明庵は、旧日光街道沿いの古民家(旧久野家)を使った観光案内所のような施設でした。中に入ると暖かいお茶をいただきました。

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神明宮は1713年(正徳3年)に、草加宿の総鎮守として現在の位置に建てられたということです。現在の社殿は1847年(弘化4年)に再建されたものだそうです。
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鳥居横の大きな石には几号(きごう)水準点が読み取れました。午前中に三田富士浅間神社の几号(きごう)水準点よりははっきり読み取れました。

おせん公園には河合曽良の像がありました。
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草加せんべい発祥の地「おせん公園」には自然石で作られた石碑がありました。
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伝右川を渡ると札場河岸公園です。ここは草加松原の南端にあたり、園内には芭蕉像、望楼、かっての河岸場、お休み処草加宿芭蕉庵がありました。
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珍しかったのは甚右衛門堰(じんざえもんぜき)。
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伝右川の2連アーチ型煉瓦造りの水門で明治7年に再構築されたとのことでした。

草加松原遊歩道は約1.5km、旧日光街道沿いに松が634本(むさし)植えられているのです。風景としてはとてもきれい。
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途中に太鼓の型で矢立橋と百代橋があり上からの松並木も見事なのです。
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松並木途中に小さなハープが飾られたハープ橋がありそれを渡ると松原綾瀬川公園に入り草加市伝統産業展示室「ぱりっせ」に到着です。
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ここは草加の3大地場産業の煎餅・ゆかた染・皮革の歴史や製造工程の紹介と製品販売をしていました。
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ウォーキングゴールは獨協大学前(草加松原)駅。東武スカイツリーラインの駅。元は東洋一のマンモス団地といわれた草加松原団地があったことから松原団地駅だったそうですが、1964年(昭和39年)そばに獨協医科大学ができたことから現在の「獨協大学前(草加松原)」に駅名が変更となったとのことです。

本日は喜多見先生・TD林さんの引率で18名が参加でした。今日は草加市の産物が草加せんべいはもちろん、本染めゆかた、皮革製品と改めて認識し、大いにうれしくなりました。ウォーキング中のルートだけでも十数軒の煎餅屋さんがありました。ちなみに市内では100軒以上ありそうでした。
喜多見先生おすすめのお土産はもちろん、「草加せんべい」。私は追加でお店ごとの味が違うということで詰め合わせも購入しました。
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今日一日のコースの中では昼食前後にパラパラ雨が降りましたが21000歩、約10kmはまずまずで終えられました。また次回もどんな街並みに出会うか楽しみにしています。
posted by yunofumi at 13:13| あちこちウォーク

2021年04月22日

2021.4.15 江戸古地図で巡る東京の街並み 第1回新橋・銀座・丸の内

我が家の地植の君子欄が今年も見事に咲いてくれました。この花を見ると「元気で今年も頑張ろう」と思う私です。
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JR新橋駅⇒GINZA9⇒土橋⇒静岡新聞ビル⇒出世街道⇒見番通り⇒金春通り・煉瓦遺構の碑・ノーブルパール⇒金春湯⇒寿司久兵衛⇒銀座博品館⇒新橋親柱⇒銀座柳2世歌碑⇒芝口御門跡⇒鉄道歴史展示室・旧新橋停車場⇒汐留シティセンター⇒日本テレビ・江戸時代の仙台藩上屋敷表門跡⇒新橋駅鉄道唱歌の歌碑⇒旧読売ビル⇒烏森神社⇒末げん(昼食)⇒新橋駅・D51機関車⇒新橋駅高架煉瓦⇒渡邉木版美術画舗⇒潟Cシグロ⇒新橋会館⇒豊岩稲荷神社⇒交詢社⇒旧朝日新聞社屋・啄木歌碑⇒空也もなか⇒BAR LUPIN⇒みゆき通り⇒鳩居堂⇒安藤七寶店・悠久の翔⇒TERMES⇒TOYU PLAZA⇒数寄屋橋公園⇒銀座ミキモト⇒銀座2丁目・銀座発祥の地碑⇒ヨネイビル・GINZA MAISON⇒奥野ビル⇒京橋跡・交番⇒東京大根河岸・青物市場蹟⇒江戸歌舞伎発祥の地碑⇒GRAHMS CAFE⇒千葉定吉道場跡⇒福岡アンテナショップ⇒鍛冶橋門跡⇒三菱美術館⇒日本郵便・タラヨウの木⇒JR駅

新橋を出発すると土橋と表示した交差点がありました。土橋はかつてお濠であった汐留川に架かっていた土の橋で、橋というより土塁に穴が開いてて水が流れるものだったようです。1962年に開通する首都高速道路の京橋〜芝浦の3年前にこの土橋と城辺橋の間が開通し、日本最初の首都高速道路の入り口の場所となったようです。
今日はこの銀座8丁目からスタートです。

静岡新聞ビル。
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文字通り静岡新聞と静岡放送。そのほか山梨日日新聞・山梨放送などが入居しているビル。丹下健三さんの設計による、メタボリズムの思想を取り入れた建物ということです。

銀座にはビルとビルとの間を通り抜けられる路地が50以上あるそうです。その中で銀座8丁目にある見番通りと並木通りを結ぶ「出世街道」と呼ばれる路地がありました。かつて、故田中角栄氏が議員時代この界隈で飲食している時、国会へ呼び出された際に、この路地を通り抜けて国会まで続く道を駆け付けたこと、角栄氏が議員から総理大臣にまで上り詰めたこと、また、この路地から国会までほぼ真っすぐに続く道が次第に広くなっていることから、「出世街道」と呼ばれるようになったということです。この路地には、京風おでんなどの店「ぎんざ魁」、「出世街道ギャラリー銀座わたなべ」、有名店「小笹寿し」などが並んでいました。
見番通りはかなめ屋の前の通り。かなめ屋の斜前には「新橋見番」 るようです。
金春通りは江戸時代に能楽の金春流の屋敷があったことに由来しているようです。
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江戸時代、幕府直属の能役者として土地や俸禄を与えられていた家柄に、金春・観世・宝生・金剛の四家があり、最も歴史のある金春家は室町時代以来繁栄し、江戸時代初期から観世太夫とともに江戸で能を演じていた名家で、屋敷なき後も、この地にその名を留めているとのことでした。

煉瓦遺構の碑。
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明治になり江戸の大火を恐れた明治政府が銀座に延べ約10kmに亘る煉瓦街を造っつたとのことです。残念ながら煉瓦街は関東大震災で消失しましたが、昭和63年に幻と言われた煉瓦街遺構が発掘され江戸東京博物館に収蔵されました。この遺構が、かつての金春屋敷跡内で発掘されたことを重要視し、あえて収蔵遺構の一部をゆかりの金春通りに建立したのが、写真にある「銀座金春通り煉瓦遺構の碑」なのです。
この碑のそばにあるノーブルパールは1946年(昭和21年)の創業以来、古き良き銀座の面影を今に残す金春通りにある「オートクチュール(高級注文服)」のお店。こちらの入り口傍には今もひっそりと昔の水道に使われていた木樋がおかれていました。

金春湯。
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現在、中央区には10軒の公衆浴場(銭湯)があるそうです。この金春通りにある「金春湯」はそのうちの一軒。銀座に残っていること自体非常に珍しいことですが、創業が江戸時代末期の1863年(文久3年)ということですからもう150年以上の歴史があるとのことです。昭和32年に現在の建物に改築されたとのことですが、江戸時代から存続している都内の銭湯の3軒の内の1軒ということです。

新橋親柱。
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江戸時代は、汐留川に「新橋」が架けられおり、芝口御門が出来た段階で、芝口橋と名前が変わりました。その後、芝口御門の焼失に伴い、新橋の名前に戻されたとのことでした。

銀座柳二世の歌碑。
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銀座には昔は松・桜・まき・柳が、その後はイチョウが植えられたようです。そして今、最終的に柳並木を銀座に復活させているようで東京大空襲による多くの木が焼失されたなかからの復活なので、銀座の柳二世と言われているようです。

芝口御門跡。
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この辺りの高速道路の下には、もと汐留川が流れ、旧東海道には、昭和39年まで新橋が架かっていました。1710年(宝永7年)、朝鮮の聘使(へいし)の来朝に備えて、新井白石の意見で国の威光を示しために、この新橋の北詰に、城門が建設されて、芝口御門と呼ばれたのです。城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形とし、橋のたもとの冠木門から枡形に入って右に曲がると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられたのです。その後、この芝口御門は1724年(享保9年)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去されたのです。

鉄道歴史展示室。
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1872年(明治5年)、新橋(東京都)−横浜(神奈川県)間に日本初の鉄道が開通したこと。この時の新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に再現したのがこちらの施設。建物の裏には旧新橋停車場があります。

新橋駅鉄道唱歌の歌碑。
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新橋駅烏森口のそばにあります。作詞は大和田 建樹、作曲は多 梅稚。ちなみに「汽笛一声新橋を---」に始まる歌詞は66番まであるそうです。

烏森神社(からすもりじんじゃ)。
烏森のこのあたりは武蔵の国桜田村と呼ばれていた頃、松林が多く鳥が多く集まりであった。その為当時この地帯は「枯州の森」あるいは「空州の森」と言われていた。しかもこの松林には、烏が多く集まって巣をかけていた為、後には「烏の森」とも呼ばれるようになった。それが烏森という名の起こりである。明治以降昭和7年まで町名として使われていたが、その後新橋に改められ、今ではJR新橋駅の烏森口としてその名をとどめている。

末げん( すえげん)は、1909年(明治42年)創業の老舗料理屋。創業者の丸源一郎が修行した店「末廣」と、彼の名前「源一郎」から「末げん」と称したのが起源とのこと。
本日は親子丼セットをいただきました。
三島由紀夫が自決前日の1970年(昭和45年)11月24日に楯の会のメンバー4名(森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)と最後の晩餐をした場所として知られるとのことでした。

渡邉木版美術画舗。
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珍しい浮世絵専門のお店。明治42年東京、京橋で創業とのこと。浮世絵専門の画商として、オリジナル浮世絵と浮世絵復刻版を国内外に販売しているとのことでした。

豊岩稲荷神社。
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ギンザ108ビル右横の路地入り口に目印の旗がありました。路地の奥に入ったところにあった神社。ビルの壁に張りついた平面神社で縁結びの神様としても知られており女性の参拝者が多く訪れるとのことでした。

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交詢社(こうじゅんしゃ)は明治初期、福澤諭吉先生の主唱により、「銀座の地に創られた日本最古の社交機関。学校教育を終えて社会人となった人たちが、めざましく変化する実社会にたいおうするため、各人が互いの知識を交換し合って、流動する社会の実務に対処する機会を提供しようとの主旨で「知識を交換し、世務を諮詢する」ことを目的に1880年(明治13年)にもうけられたとのことです。

銀座6丁目並木通りあったのが啄木歌碑。
「京橋の瀧山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」
このころは朝日新聞社に校正係として勤めていたようです。
この碑の裏にはキツツキ(啄木鳥)が造られていました。
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空也もなかは東京銀座6丁目にありました。
漱石が好んだ和菓子として有名で明治17年創業の老舗「空也」です。
サクッとした最中の中に上品なしっとり餡子が入っていて、とてもおいしい。普段は予約なしでは難しいらしいのですが新型コロナの影響でしょうか、幸い求めることができました。

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BAR LUPINは太宰治の小説が好きな方が死ぬまでに一度は行きたいというバーだそうです。林忠彦、織田作之助、坂口安吾などの文人が多く通っていたお店だそうです。


安藤七宝店の窓辺に「悠久の翔」というからくり人形がありました。夢童由里子さんの作品で作動は 13:30・15: 30・17:30・19:30だそうです。
今日は動くところは見られませんでした。

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銀座2丁目には「銀座発祥の地碑」があります。ここは江戸時代に銀貨を製造する銀座役所(銀貨幣鋳造所)あり、今の銀座のはじまりなのです。

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奥野ビルは昭和初期に建てられた当時としては最先端の高級アパートだったようです。有名ギャラリーやアンティークショップなどがビルの雰囲気を生かしているのです。今も手動のEVが使われているのが驚きでした。
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江戸歌舞伎発祥の地碑。
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1624年(寛永元年)猿若中村勘三郎が中橋(日本橋と京橋の中間あたり)に猿若中村座の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まりとのことです。当時は中村座のほかに市村座、森田座山村座がお上から許されていた芝居小屋だったそうです。役者としては市川団十郎や尾上菊五郎などが人気者だったようです。

JR東京駅八重洲口前を通る外堀通りは、かつて江戸城の外濠だった場所。鍛冶橋門は、1629(寛永6)年に秋月藩主黒田長興らによってつくられ他とのことですが今は「鍛冶橋門跡」という説明版があるだけでした。門前には御用絵師として江戸城本丸の襖絵を描いた加納探幽の屋敷があったようです。

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「三菱一号館」は、1894(明治27)年、開国間もない日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された建物。ここは全館に19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が用いられているとのことです。この建物は老朽化のために1968(昭和43)年に解体されましたが、40年あまりの時を経て、コンドルの原設計に則って同じ地に2010(平成22)年春、三菱一号館美術館として再出発したのです。

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この木は東京駅そばのKITTEにある「タラヨウの木」です。これは郵便局のシンボルの木で「はがきの木」とも言われ、実際に郵便はがきとして使えるのです。

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東京駅(とうきょうえき)はJR東日本の在来線と新幹線各路線、JR東海の東海道新幹線、地下鉄丸ノ内線が発着するターミナル駅。いつ見ても美しい駅舎は辰野金吾設計で完成まで8年かかったようです。

今日は晴天の下、それも微風で心地よい日和の中のウォーキングでした。21人の仲間と共に、何度も訪れている銀座中心のウォーキングでした。古い街なので色々ありましたが知らないことも多く、とても面白かったです。
ゴールの東京駅に着いた頃は17000歩くらいでしたから距離としてはそんなでもなかったのです。さてこのシリーズは今後、神田ー湯島ー両国ー浅草ー上野ー六本木と6回シリーズで展開予定なのです。いずれも行ったことがあるといえばそれまで! やはり本日のように新発見があるはずですから楽しみにいたします。
皆様も楽しみにして待っていてください。そしてこのブログを参考に皆様も街歩きを楽しんでいただきたいです。
posted by yunofumi at 13:59| あちこちウォーク

2021年04月17日

2021.4.11 さいたま彩発見10区ぶらり街あるき 第12回桜区

JR埼京線南与野駅--路線バス-埼玉大学⇒大久保の大ケヤキ⇒えの本(昼食)⇒秋ヶ瀬公園⇒鴨川堤桜通り公園⇒新開タワー(しびらきたわー)⇒さくらそうウ公園・田島ケ原さくらそう自生地⇒鴨川・昭和水門⇒JR西浦和駅

南与野駅(みなみよのえき)は、埼京線の駅。、埼京線は大崎駅から新宿駅、池袋駅、赤羽駅、武蔵浦和駅を経由し、大宮駅までを直通運転しています。常日頃は乗りなれていない路線なので列車のスピードがとても早く感じました。1985年開業の駅ですがまだまだ乗客は少なそうでした。東口前には広々とした鈴谷東公園がありました。
桜区はさいたま市の南西にあり、荒川を渡れば志木市などに接しています。ということでこの区のシンボルのサクラソウを訪ねるウォーキングとなりそうです。

まずは南与野駅から埼玉大学まで路線バスで移動。
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埼玉大学は国立の大学。官立浦和高等学校、埼玉青年師範学校、埼玉師範学校を統合し1949年国立大学として設置されたとのことです。現在は5学部(教養・教育・経済・理・工)、3大学院研究科(人文社会科学・教育学・理工学)を有する総合大学で、埼玉県で唯一の国立大学。ノーベル賞の梶田 隆章(かじた たかあき)先生はこちらの卒業生とのことです。

大久保領家公園を通り過ぎると大久保日枝神社がありました。
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この社は大山咋命を祭神としており地元では「領家の山王様」と呼ばれており、お産の神様としてして知られているのです。妊婦が安産を願ってお参りしその後、無事出産を終えると、母親は自分の頭髪を一房切って神前に備えてお礼参りをするのが習わしのようです。
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社頭にはある大欅(おおけやき)は、目通りの周囲が9.7mもある樹齢千年という老木。幹には空洞が見られました。
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この大欅は、若狭の八百比丘尼(やおびくに)が植えたと伝えるもので、「はばきさま」と呼ばれている。比丘尼は特別なもの(人魚の肉など)を食べたことで不老長寿を獲得した方とのことです。

えの本ではそば膳をいただきました。
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これより埼玉大学キャンパスを散策しながら南区役所に向かいました。さすがに国立大学は広々していました。
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埼玉大学を通り抜けると鴨川堤桜通り公園との案内があり浦和工業団地、サイデン化学の社屋がありました。この会社は接着剤・粘着剤・塗料など化学製品を作っているようです。区役所そばにある大きな「さいたま市記念総合体育館」は「サイデン化学アリーナ」というようです。
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桜区はさいたま市内南西部にありもともとは大久保地区と土合地区の一部からなっています。大久保地区は、明治22年、上大久保村、下大久保村、五関村、植田谷領領家村、植田谷領在家村、塚本村、宿村、神田村、白鍬村の九か村が合併して大久保村となったのです。
桜区は現在人口約9万5千人、区の花はサクラソウ、区の木はサクラ、区の色はさくら色と桜一色です。
庁舎は2003年(平成15年)に開庁ですからとても新しくきれいでした。すぐ隣のプラザウエストに図書館がありました。
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近くの別所沼古墳から犀形埴輪がでたということで大きな復元がオブジエで飾られていました。
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図書館を通り抜けるといよいよ秋ヶ瀬公園です。
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荒川の手前の鴨川堤は桜通り公園というそうで、今はソメイヨシノは終わり八重桜が見られました。
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新開タワー(しびらきたわー)は平野原送信所(ひらのはらそうしんじょ)といい、正式には「NHK平野原FM放送所」と「テレビ埼玉・浦和テレビ送信所」というそうです。埼玉県の地上デジタルテレビジョン放送およびFMラジオ放送を送信する高さ約173mの電波塔(送信所)で埼玉では最も高いタワーだそうです。電波塔としては埼玉県南部、県央地域、東部、利根地域、東京23区北部・北多摩郡市北部、千葉県北西部、茨城県南西部および群馬県南部を放送エリアとしてカバーしているようです。
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鴨川の土手を河原のほうに 浦和ゴルフ倶楽部がありました。
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浦和ゴルフ倶楽部は1962年(昭和37年)に開場したゴルフ場で長年地元にも親しまれているようです。

国道40号のさくらそう橋に着き荒川の大きな昭和水門手前を右折でいよいよ田島地区に入り、田島ケ原サクラソウ自生地です。
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珍しい白色のサクラソウ
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ノウルシ
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ここでちょっと休憩。埼玉の一品「シュガーバターの木」をいただきました。
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どうやらこのお菓子の製造工場が埼玉にあるらしいのです。

桜区は2003年(平成15年)に政令指定都市となったさいたま市に一区として誕生した新しい区で住民もどんどん増えているようです。区役所ができた後、その前にきれいな道ができ、さいたま市の中心に向かうのが非常に便利になったのです。私もこの道を毎朝通って埼玉県庁傍まで通勤しています。

本日は南与野駅10:00集合。その後路線バスで埼玉大学に行きここをスタートとして、いつも見ている風景の中をひたすらウォーキングを15:00西浦和駅まで約10km、2万歩超えのウォーキング。微風に撫でられながら青空とぽっかり浮かぶ雲を見、大いに楽しみました。やはりウォーキングはお天気が一番の御馳走なのでした。これからも晴天の下、ウォーキングしたいものです。
posted by yunofumi at 14:09| あちこちウォーク

2021年04月08日

2021.3.30 さいたま彩発見10区ぶらり街あるき 第11回緑区

さいたま市内の緑区ウォーキングです。JRで浦和がつく駅は8か所、浦和・東浦和・西浦和・南浦和・北浦和・中浦和・武蔵浦和・浦和美園があります。今日はそのひとつ東浦和駅に始めて降車です。

JR東浦和駅⇒見沼通船堀公園⇒附島氷川女体神社⇒稲荷社⇒鈴木家住宅⇒水神社⇒稲荷社⇒日本料理ふじ⇒木曽呂の富士塚⇒見沼通船堀⇒一休⇒赤山街道⇒大間木氷川神社⇒清泰寺・本殿・庚申塔・見性院の墓⇒見沼氷川公園⇒氷川女體神社⇒宮本二丁目バス停⇒戸田公園駅

東浦和駅(ひがしうらわえき)は、武蔵野線の駅で1973年(昭和48年)にJR(昔は国鉄)の駅として開業当初には自動改集札機が試験設置された駅。ということは当時はほぼ無人駅だったようです。しかし今は1日乗車約3万人で、しかも駅の周囲には多くの民家などがありました。
10:00春の日差しいっぱいの元で喜多見先生と共にウォーキング開始です。

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見沼通船堀公園は1731年(享保16年)に井沢弥惣兵為永(いざわそべいためなが)により開削された我が国最古といわれる閘門式運河、見沼通船堀のある公園。中ほどに芝川が流れ、その東側に見沼大用水東縁(ひがしべり)、西側には見沼大用水西縁(にしべり)がありその流れの両側には桜回廊と呼ばれる桜並木が総延長は20kmあると伺いました。本日は桜がほぼ満開で大いに楽しめそうです。

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附島氷川女体神社(つきしまひかわにょたいじんじゃ)は見沼通船堀の舟運で栄えた大間木村(おおまぎむら)の鎮守社。附島(つきしま)という地名は、かつて江戸湾(東京湾)が内陸まで侵入していた時代に島だったという名残ということです。

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この稲荷社は八丁(はっちょう)に見沼通船堀の会所があり重要な荷上場があったことで多くの人々により勧請されたお宮とのことです。

鈴木家住宅。
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見沼通船堀には、通船差配役であった鈴木家の住宅がありました。鈴木家は、幕府から見沼通船堀の差配(各船に対する積荷や船頭の割り振りなど船割りを行う業務)役を命じられていたようです。文政年間(1818年から1830年)以降は、差配を執り行う事務所(八丁会所)に出向いて差配にあたり、住まいも江戸からこの地に移したということです。現在残る鈴木家の建物(母屋・米倉・その他の建造物)は、その頃に建てられたと考えられています。当時を思い、船がありました。
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水神社。
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見沼通船堀ができた翌年の1732年(享保17年)に、見沼通舟堀が開通した江戸期に、舟の事故がないようにと祈願してできたもののようです。その堀は境内のすぐそばを流れており、大正時代くらいまでは使われていたとのことです。本殿は大正12年の大地震で全壊しその後再建されたようです。

稲荷社。
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こちらは女体権現御旅所跡だったようです。

木曽呂の富士塚。
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江戸時代に通船堀を望むように作られた富士山信仰の塚。以前は胎内巡りもできたようです。 台地上からの標高差は5.4m、直径20mの大きさ。上から見るととても高い印象で高所恐怖症の私は足がすくみました。

これより通船堀東縁の桜をしばし眺め、食事場所に向かいました。
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一休ではすばらしくおいしいランチをいただきました。
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大間木氷川神社そばに「赤山街道」の案内板がありました。ただただ普通の道ですがどうやら以下のようなことらしいのです。
赤山街道は、関東郡代の伊奈氏が1629年(寛永6年)に陣屋を構えた赤山(川口市赤山)に向かう街道。街道の起点は与野市あたりらしく、浦和市内の木崎・三室・尾間木地区から八丁堤を通って赤山に通じていたようです。伊奈氏は清和源氏の流れを汲む武人で、信州伊奈に住んでいたことから伊奈氏と称したとのこと。その後三河に移り松平氏、徳川家康に仕え、家康の関東入国後、伊奈氏は小室(伊奈町)、鴻巣などに一万石をいただき、小室や土屋(大宮市)などに陣屋をおいて累代治水事業に力を注いだのです。三代目半十郎忠治は、関東郡代となって、また勘定奉行も兼ね、赤山領七千石を拝領し赤山に陣屋を移したようです。忠治は治水、感慨、新田開発に力を入れ、特に利根川、荒川の大改修を行い、寛永6年には八丁堤を築き見沼溜井造成に着手したのです。現在、赤山街道は与野市や浦和市内で赤山横町とか赤山通りと呼ばれています。

大間木氷川神社の創建年代は不詳。
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旧別当寺三光院の先祖がこの地に土着してこの神社の祭祀を司るようになったものと思われ、三光院で所蔵していた笈が室町時代の漆工芸晶であることからこの神社の創建も室町期ではないかということです。年代不明ながら稲荷社二社と石神井社を合祀したとも伺いました。また、1667年(寛文7年)武蔵国一宮氷川神社(大宮市)の造替にあたり、旧本殿を買受けて建立したということです。
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正面に鳳凰、左右は牡丹の彫刻が色彩豊かに残っていました。

清泰寺(せいたいじ)。
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清泰寺は、足立坂東三十三観音霊場6番札所。平安時代初期に慈覚大師円仁が開山したと伝承されているとのことです。敷地内にはおびただしい庚申塔がありました。
墓地の奥には見性院の墓がありました。
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見性院(けんしょういん)は、戦国時代から江戸時代初期の方で甲斐国武田家家臣の穴山信君(梅雪)の正室。もともとは武田信玄の次女で、母は信玄正室三条夫人ということです。

そしていよいよ見沼大用水西縁(にしべり)の桜回廊と呼ばれる桜並木を存分に楽しみました。
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見沼氷川公園は氷川女体神社の眼下に作られた公園。園内にあるハーブ園には、ラベンダーやミントなどのハーブが植えられており、良い香りがほのかに漂う憩いの空間で、人気スポットのようです。
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童謡「案山子」の歌詞は「 山田の中の一本足のかかし 天気のよいのにみの笠着けて 朝から晩までただ立ちどおし 歩けないのか山田のかかし」「 山田の中の一本足のかかし 弓矢でおどして力んで居れど 山では烏がかあかと笑う 耳が無いのか山田のかかし」
このあたりは、国定教科書の編さん官であった武笠 三(むかさ さん)の生誕地とのこと。公園の正面近くに、高さ3mブロンズ製の「案山子像」がありました。記念碑の揮毫者は国文学者である金田一春彦とのこと。平成5年4月29日に建立されたようです。台座は六角形で建立趣意書と武笠 三の略歴が刻まれていると説明を伺いました。 

またこのさいたま市には多くの竜神伝説があるとの案内がありました。
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だからでしょうか、東浦和駅前には竜神の像がありました。
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氷川女體神社。
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武蔵国有数の古社で、見沼の谷に突き出した小舌状台地の上にあるとのことです。クス、モチ、シラカシなどの暖地性植物が繁茂しており、埼玉県の「ふるさとの森」にも指定されているとのこと。
所蔵する文化財に古鈴、三鱗文兵庫鎖太刀、牡丹文瓶子、大般若経波羅蜜多経五百九十三巻 など他多数があることから「埼玉の正倉院」とも呼ばれているようです。
今から2000年前の昔、第10代崇神天皇の時代に勧請をしたと伝えられているようですが、実際は奈良時代(710〜794)の建立とのこと。氷川女體神社の「女體」は、御祭神である稲田姫命(いなだひめのみこと)に由来し、日本書紀のなかでは、稲田姫命は須佐之男命(すさのおのみこと)がヤマタノオロチ退治の際に助けて妃にした姫とされているのです。
また、一説には、当社(女體社)と、大宮区高鼻町にある大宮氷川神社(御祭神:須佐之男命・男体社)、見沼区中川にある中山神社(御祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて、武蔵国一宮と称されていたとも伝えられています。実際に三社は一直線場に配置されており、氷川女體神社の拝殿には、武蔵国一宮の扁額が掲げられています。
中世以来、武門の崇敬を集めており、鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などにゆかりある書物や宝物が多く所蔵され、徳川将軍家からも社領50石を寄進されています。現在の社殿は、寛文7年(1667)徳川幕府四代将軍家綱が忍城主阿部忠秋に命じて建立したものです。本殿は三間社流れ造りで全面に朱の漆が塗られ、拝殿と相の間で結ばれており、形式的には権現造りに近い建造物です。

氷川女體神社にお参り後は宮本2丁目バス停から路線バスで東浦和駅に戻りました。
本日は桜を堪能し、先生から埼玉の一品として「浦和ポテト」と「ちりめんじゃこ」をお土産に帰宅しました。「浦和ポテト」は花月庵つくばの甘くてサツマイモ風味がいっぱいの和菓子でした。「ちりめんじゃこ」は一休のランチでいただいたのでこのおいしさを家族にも味わわせたいと思い求めたものです。
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本日は晴天の下、24℃にもなったようでしたが約2万歩超えながら、本当に気持ちよく、桜を愛で、幸せな1日でした。喜多見先生、7人の仲間の皆様、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 16:11| あちこちウォーク

2021年04月03日

2021.3.28 さいたま彩発見ぶらり街あるき 第10回戸田市

本日は埼玉県内でもさいたま市を離れて県央地区の街歩きに入ります。
戸田市は人口14万人の若い街で住人の平均年齢は40歳台とのこと。県内では住人の快適度は1位と伺いました。
戸田と付く駅名はこの戸田駅・北戸田駅・戸田公園駅と3か所あるとのことですが、本日のウォーキングゴールは一番大きな戸田公園駅を目指します。

JR戸田駅⇒いちげん食彩厨房⇒BZ花壇⇒沖内囃子⇒地蔵菩薩座像⇒沖内会館⇒神明榎橋⇒五差路通り⇒上戸田3丁目交差点⇒鍛冶谷町公園線⇒上戸田氷川神社⇒羽黒社⇒羽黒大権現⇒伏見稲荷⇒新田口公園(鍛冶谷・新田口遺跡)⇒新曽沖内馬頭観音像⇒Le Copain(昼食)⇒二枚橋⇒新曽小通り⇒浅間社⇒新曽南一丁目⇒金森橋⇒蒲川・新曽南の桜⇒戸田中通り・中ノ橋信号⇒戸田公園大橋⇒戸田ボートレース場⇒戸田桜づつみ⇒戸田公園⇒戸田橋⇒旧中山道・戸田渡船場跡・水神社・地蔵堂⇒戸田橋親水公園⇒川岸3丁目遊園地⇒戸田公園駅

BZ花壇。
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戸田駅前に緑のボランテア活動という看板でお花を種々植えてありました。
中央に桜の大木がありまずはほのぼの気分で出発できました。

沖内囃子(おきないばやし)は「テンノウサマ」と呼ばれる津島神社の夏祭りに奉納されるとのことで目印があるだけでした。

地蔵菩薩座像。
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1818年(文化15年)の造られたとのこと。作者は旧下戸田村の石工秋本金次郎。また銘によると新曽の観音寺の僧隆賢の指導があったようです。

上戸田氷川神社。
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上戸田氷川神社は、1382年(永徳2年)に戸田城主桃井中務大輔直和が武運長久のために大宮氷川神社を勧請し、城内に(真言宗)亀宝山能満寺多福院を建て、当社の別当とし、旧上戸田村の鎮守氏神として祀られたあようです。1893年(明治6年)に村社となり、1907年(明治40年)に旧上戸田村にあった羽黒社、道祖神社、山王社、稲荷社などを合祀したとのことでした。
羽黒大権現。
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伏見稲荷。
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芭蕉句碑。
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新田口公園(鍛冶谷・新田口遺跡)。
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荒川(旧入間川)の自然堤防上に立地する弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡のようです。多数の方形周溝墓や住居跡も見つかったことから大規模集落の遺跡だそうです。

「新曽沖内の馬頭観音像」は、「寛文十庚戌暦三月廿一日(1670年)」の紀年銘がある馬頭観音とのこと。本日はお堂が開いていませんでしたので見られませんでした。
講師の説明では紀年銘の他には「武州足立郡新曽村惣百姓衆中」「奉造立馬頭観音像」という銘文が確認でき、新曽村の惣百姓衆中により造立されたということでした。

Le Copain(ル コパン)で昼食。落ち着いた雰囲気のレストランでフレンチやイタリアンを出すようです。とても美味でおまけに手際が良くまた伺いたいお店でした。
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浅間社。
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富士山信仰の冨士講は江戸時代に盛んで旧新曽村の名主がこれを建立したようです。

金森橋から新曽桜川の桜をゆっくり楽しみました。
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TBS戸田送信所。
150mと57mの鉄塔が2本すっくと立っていました。ウォーキングしながら通りすがりに見ましたので機械類があるだろうと思われる建物などははっきりわかりませんでした。実は給電部、整合器、STL導波管などがあるとネットの情報で知りました。

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戸田公園大橋は、競艇場への通路のほか、災害時の避難通路として計画された歩道橋。橋の長さは179m、幅5.25m、主塔の高さは地上59.9m。公園内に架けられているため、橋の上部は景観を重視し、主塔から斜めに張られたワイヤーで支える斜張橋となっておりこの形式の歩道橋としては、日本最大規模の長さだそうです。1968年(昭和61年)から建設が始まり1988年(昭和63年)に完成。総工費8億3千万円だそうです。

戸田ボートレース場。
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当初は荒川左岸の排水路が計画されたようですが1940年(昭和15年)の第12回オリンピック東京大会を誘致する計画でボートコースが設られたのですがこの大会は戦争で中止。その後1964年(昭和39年)第18回オリンピック東京大会の漕艇協議会場となり、全長2400m、幅90mで完成しているとのことです。

戸田桜づつみ。
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桜づつみを過ぎると戸田公園に入りました。この公園は東西に約2.5km、南北に約300mあり、日本最大規模の人工静水コースを備えた戸田漕艇場があり、その一部は戸田競艇場なのです。公園の全域の住所が戸田市戸田公園だそうです。夏の戸田橋花火大会が有名なのです。

戸田ボートレース聖火台。
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法政大学合宿所。
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ボート部監督波間昭司先生に説明をいただきさらに艇庫の中も着せていただきました。

戸田橋(とだばし)は、東京都板橋区舟渡と埼玉県戸田市堤外の間で荒川に架かる国道17号(中山道)の道路橋。橋長519m、幅員21m。交通量が半端ない感じでした。
中山道は江戸・日本橋から京都までの136里(約544km)の街道。宿場は69宿、旧中山道は戸田渡船場がスタート。ということですが当時の面影は以下の三か所のみ。ちょっと残念です。

戸田渡船場跡。
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板橋宿と蕨宿の間にある荒川の渡し場で下戸田村が運営していたようです。江戸時代には江戸の玄関口ということで参勤交代の大名や皇女和宮も通られて様です。

水神社。
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正面の「水神宮」の碑には1769年(寛政8年)の銘がありました。古くは荒川の端にあったもので、新堤防ができてから移され、川岸に住む人々の氏神様のようになっているようです。  境内の正面には、「水神宮」や「船玉大明神」(船の守り神)と刻まれた大きな石碑が鎮座しています。また、「山王大神」や、茨城県の大杉神社から勧請した「大杉大神」(航海安全の神)などの石碑も合祀されているとのことです。

戸田橋親水公園。
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1932年(昭和7年)に完成した3代目戸田橋は吊橋の鉄橋でとても美しい橋だったようです。この橋の親柱は御影石を積み上げ、頂部には照明があり当時としてはとてもモダンだったようです。今は公園入口に立っています。

JR戸田公園駅。
この駅は1985年開業。戸田とつく3駅の中心駅。1日乗客は約35000人。時刻表から1時間当たり6本の列車が行き来しているようでした。

先生からいただいた本日の逸品は戸田公園駅そばのレガッタショップ、ロングレンジのオールの形をしたサブレでした。リュックの中に入れ持ち帰ってからいただきましたからその時には割れていましたがとても香ばしいサブレでした。
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本日喜多見先生・TD小松さんの引率で久しぶりのさいたま再発見のウォーキングでした。参加は18人。戸田市の中は公園、特に子供向けの公園が多く見受けられなるほど、新しい住人が増えているのを実感しました。コロナ禍の中でしたが何処でも密にならず、のんびりウォーキングでき、満開の桜を充分堪能できたのがとてもよかったです。次はもう一度4月中にウォーキングに参加します。まだ桜が残っているかしら、と楽しみです。
posted by yunofumi at 14:41| あちこちウォーク