2018年02月12日

2018.2.10 山手線歴史探訪ウォーク 第6回

新宿駅〜渋谷駅
JR新宿駅・新南改札・ペンギン広場⇒高島屋新宿店⇒新宿4丁目交差点⇒天龍寺⇒雷電稲荷神社⇒伊勢丹新宿店⇒新宿3丁目交差点⇒追分だんご⇒東京メトロ新宿三丁目駅⇒末広通り⇒新宿末広亭⇒要通り共栄会⇒新宿柳通り⇒不動通り会⇒太宗寺⇒正官庄⇒四谷区民センター⇒玉川上水水番所跡⇒四谷大木戸跡碑⇒四谷四丁目交差点⇒内藤新宿開設300年記念碑⇒新宿御苑大木戸門⇒新宿1丁目⇒三遊亭圓朝旧居跡・花園公園⇒花園幼稚園・花園小学校⇒花園町親交会⇒成覚寺⇒正受院⇒玄海(昼食)⇒新宿御苑新宿門・千駄ヶ谷門⇒新井白石終焉の地⇒日本デザイン専門学校⇒JR中央緩行線御苑裏ガード⇒千駄ヶ谷大通⇒明治通り⇒山手線裏参道ガード⇒北参道⇒明治神宮⇒代々木公園原宿門・渋谷門⇒NHK⇒二・二六事件慰霊碑⇒神南小学校⇒紀伊国屋書店⇒JR渋谷駅ハチ公前改札口

JR新宿駅新南改札・ペンギン広場
新宿駅はJR東日本、京王電鉄、小田急電鉄、東京メトロ、東京都交通局が乗り入れる駅。2016年7月に新宿駅新南改札正面に新たな待ち合わせスポットとして「Suicaのペンギン広場」が登場。今回初めてじっくり見ました。待ち合わせ場所にはいいと思いました。
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天龍寺は、東京都新宿区新宿四丁目にある曹洞宗の寺院。創建は1591年(天正19年)。
天龍寺の前身は遠江国にあった法泉寺とのこと。法泉寺は徳川家康の側室だった西郷局(於愛の方)の父、戸塚忠春の菩提寺であり、西郷局が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠を産んだことから、家康の江戸入府に際し遠江国から現在の牛込納戸町・細工町付近に移されたようです。この時、寺名を天龍寺と改めたのは法泉寺の近くを流れていた天竜川に由来するとか。
上野の寛永寺が江戸城の鬼門鎮護の役割をしていたのに対し、天龍寺は裏鬼門鎮護の役割を帯びていたようです。天和3年、天和の大火により焼失し、現在地へ移転したのです。江戸三名鐘の一つとされる梵鐘、「時の鐘」が現存し、大晦日には除夜の鐘でその音色を聞くことが出来ます。
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雷電稲荷神社
天龍寺とともに遠江国から遷されて来たとか、平安時代に創建後、天正年間(1573〜1593年)に再建されたなどの説があるようです。もとは天龍寺の境内社。また、源義家が奥州征伐の途中、雷雨を避けてこの地で休んでいると、どこからか一匹の白狐が現れ、義家の前で三回頭を下げたところ、たちまち雷雨が止み晴れ渡ったので、里人が雷電神社と呼んだという伝承もあると伺いました。
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「新宿元標ここが追分」と新宿三丁目交差点南東角の路面に大きく描かれていました。「追分」は街道の分岐点に見られる地名。現在の新宿三丁目交差点は、元々は甲州街道と青梅街道の分岐点であったことを示しています。平成11年3月制作とありました。
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追分だんご本舗は、1945年(昭和20年)に創業。1455年(康正元年)に、太田道灌が江戸城を築城中、武蔵品川の館から武蔵野に鷹狩りに行った帰り道、高井戸で中秋の名月のもとで宴を張っていたところ、土着の名族から手つきの団子が献上され道灌は大いに喜び、その後も団子を所望したことがはじまり。後に、高井戸宿が甲州街道の始駅となり、また1698年(元禄11年)、内藤新宿が伝馬の宿駅となり、もとの柳茶屋は新宿追分に移転し、「追分だんご」と呼ばれるようになったようです。

新宿末広亭は、都内に4軒ある落語定席の一つ。落語を中心に、漫才・俗曲などの色物芸が演じられている老舗。1940年代後半浅草にあった「浅草末廣亭」は大旦那(北村)が開場したものとのこと。
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太宗寺(たいそうじ)。
1596年(慶長元年)ごろに僧・太宗が開いた草庵、「太宗庵」が前身とのこと。1629年(寛永6年)、安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁が深まり、1668年(寛文8年)に正勝の長男重頼から寺地の寄進を受け、太宗を開山として太宗寺が創建されたのです。
1691年(元禄4年)、内藤氏は信濃国高遠藩へ移封されましたが、太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれたのです。内藤氏の墓地は約300坪の広大なものでしたが、1952年(昭和27年)から行われた区画整理で縮小されたのです。5代目当主正勝など3基の墓石が現存していました。
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境内には江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置された地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番がありました。
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また、この寺には閻魔像・奪衣婆像が安置されており、江戸時代から庶民に信仰されてきたことがわかりました。

玉川上水水番所跡。
玉川上水は多摩川の羽村の堰で取水し、四谷大木戸までは開渠、四谷大木戸から江戸市中へは石樋や木樋などの水道管を地下に埋葬して通水したのです。水番所では番所人が水門の調節で水量の管理やゴミの除去を行っていたようです。この水道碑記(すいどういしぶみのき)は高さ460p、幅230p。完成は1895年(明治28年)ということです。
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四谷大木戸跡碑。
昭和34年地下鉄丸の内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して作られた記念碑。
実際の四谷大木戸は現在の四谷4丁目交差点のあたりだったとのことです。
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内藤新宿開設300年記念碑。
新宿御苑の大木戸門を出てすぐのところにある記念碑。約300年前に、ここから新宿三丁目までの1kmに宿場が開設されたのです。
新宿一丁目の交差点は甲州道中最初の宿場・内藤新宿であった所。内藤家の甲州道中沿いの一部が用地として割かれ、宿場が造られた為に、内藤新宿と呼ばれるようになったようです。記念碑の説明では1698年(元禄11年)、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛らの願により、ここから新宿3丁目交差点付近までの約1kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設されたのです。この宿場は1718年(享保3年)に風紀紊乱の廉(かど)で一度廃止されたのが、54年後の1772年(明和9年)に再び再興されました。以降、甲州・青梅両街道が交差する交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄を続け、現在に到っているのです。
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三遊亭圓朝旧居跡。(案内板のみ)
新宿区立花園公園・小学校一帯は、明治の東京落語界を代表した三遊亭円朝が、明治21年から28年まで住んだ場所。屋敷地は、およそ1000u。母屋と廊下続きの別棟の離れが、『円通堂』と呼ばれた円朝の居室だったようです。孟宗竹の深い藪や野菜畑に囲まれ、田園風景が広がっていたようです。円朝は周囲の喧噪を避けて、当時はまだ寂しい町だったこの地を好んだのです。怪談噺や人情噺を得意とした円朝の代表作は、「真景累ヶ淵」「牡丹灯籠」「塩原多助」など。とくに新宿在住時は、新宿や戸塚を舞台とする「怪談乳房榎」や「名人長次」などを書き上げ、円熟期だったのです。

成覚寺(じょうかくじ)。
1594年(文禄3年)の創建。江戸時代には、岡場所として繁栄した内藤新宿の飯盛女・遊女たちの投げ込み寺だったようです。奉公途中に死んだ飯盛女は身に着けていたものを剥ぎ取られ、俵に詰められ、この寺に投げ込むように葬られたということです。成覚寺に葬られた人数は、2200〜3000人くらい、大変なのことです。
境内には共同墓地に葬られた飯盛女たちの供養碑である「子供合埋碑(こどもごうまいひ)」、玉川上水で心中した男女らを供養する「旭地蔵(あさひじぞう)」などがありました。 また、黄表紙という新ジャンルを成立させた戯作者の恋川春町や、暦学者の塚本明毅のお墓もありました。

正受院(しょうじゅいん)。
1594年(文禄3年)、正受乘蓮和尚を開山として創建とのこと。正受院の奪衣婆像は「綿のおばば」と呼ばれ、民衆の信仰を集めていたとのことです。
境内には1957年(昭和32年)建造の針塚と1963年(昭和38年)に造立された小見外次郎の胸像がありました。

玄海は昭和3年に創業以来80余年。水たき一筋のお店とのこと。私たちは親子御膳をいただきました。しかしこれでは食べすぎです。
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新宿御苑はもともと、江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった場所。 1879年(明治12年)に新宿植物御苑が開設され、宮内省(現在の宮内庁)の管理となりその後の第二次世界大戦後は一般公開され、現在は環境省管轄の国民公園となっています。2006年(平成18年)には100周年を迎え、開園100周年事業として、絶滅危惧植物の保護センターを設置することが計画されています。
ここでは毎年4月上旬には内閣総理大臣主催の「桜を見る会」、11月上旬には環境大臣主催の「菊を観る会」が開催されます。大正天皇・昭和天皇の大喪の礼が執り行われた場所でもあります。園の入り口は四つ(新宿門・大木戸門・千駄ヶ谷門)あります。大木戸門傍には旧大木戸門衛所がありました。
園内を散策しながらイギリス風景式庭園・フランス式整形庭園・日本庭園を見ました。
すでに寒桜が素晴らしく咲いておりました。
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旧御涼亭からの眺めは最高でした。
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新井白石終焉の地。(案内板のみ)
新宿御苑の千駄ヶ谷門を出て塀沿いに案内がありました。新井白石は、生類憐れみの令で有名な5代将軍徳川綱吉のあとを継いだ家宣、その子の幼君家継に仕え、財政も含め政治改革を行った学者で後世は「正徳の治」と呼ばれました。でも行政の進め方があまりにも性急すぎたようで幕閣から「鬼」と呼ばれてとても嫌われ、吉宗が8代将軍になると、その地位を奪われ、改革は否定されたのです。白石はこの地で6年ほど暮らし多くの著書を残したようです。

明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神社。初詣では例年日本一の参拝者数があります。今日は北参道から入り本殿にお参り後、南参道に抜けました。
ちょうど結婚式の行列に出会いました。

代々木公園はもともと大日本帝国陸軍の代々木練兵場があった場所。第二次世界大戦後にはワシントンハイツ、1964年(昭和39年)には東京オリンピックで代々木選手村となっていました。その後の1967年(昭和42年)に東京都の代々木公園として開園。敷地は540,529.00m2(およそ東京ドーム11個分)。
1964年第18回東京オリンピックでのオランダの選手宿舎が記念で残っております。
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ここには照憲皇太后の葬儀が行われた場所ということで記念碑がありました。
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代々木公園には原宿門、参宮橋門、西門、渋谷門がありいつも出入りできる感じです。

二・二六事件慰霊碑。
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ここは二・二六事件の首謀者たちが刑死した陸軍刑務所跡地。観音像と石柱とささやかな祭壇がありました。神南小学校の方に曲がると案内板があり以下の内容でした。
昭和11年2月26日未明、東京衛戌の歩兵第一第三連隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企図していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて決起した。
当時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
決起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸陸軍省警視庁等を占拠した。
斎藤内大臣高橋大蔵大臣渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣牧野前内大臣は危うく難を免れた。
此の間、重臣警備の任に当たっていた警察官のうち5名が殉職した。
決起部隊に対する処置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮圧に変転したが2月29日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。
世に是を二・二六事件という。

ここの所かなり寒い日が続いていましたが今日は9:30〜16:00のウォーキング、ほぼ晴天で気温12℃。歩程25000歩、約10kmを前回に引き続き岡本先生、TD長田さんと共に参加者26名が完歩。そういえばこの10回シリーズを本日で終了した方がおられました。何しろシリーズの場合は一度欠席すると次の機会にすぐ出会うのが難しいので数年かかる場合もあるようでした。いずれにしても自分も頑張らねばなりません。これから順次春めいてくるでしょうから大いに回を重ねるように心がけます。
posted by yunofumi at 23:49| あちこちウォーク

2018年02月10日

2018.2.6 南方熊楠生誕150周年記念企画展へ

本日は国立科学博物館へお出かけ。
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昨年の12/19〜本年3/4までの企画展に何としても伺いたいと思っていたので、本日は仕事をお休みしてお出かけしました。
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南方熊楠は100年生まれるのがはやかった!といわれている天才!
1867年(慶応3年)和歌山に生まれ、8歳の時にはすでに本草網目を筆写していたようです。
1884年(明治17年、17歳の時、今の東大予備門に入学したようです。同級生としては漱石や子規がいたようです。
2年ほどであっさりここを中退し米国へ。何しろ語学力が相当だったようでその後、ロンドンにもわたっています。
1900年(明治33年)に帰国後、熊野や那智などの隠花植物、変形菌などの収集や発見に没頭したようです。
今回の展示では長年学者と思われていた熊樟が実は自然を愛する科学者!と紹介していたようです。

しかしこの国立科学博物館はなんてすごい所なのでしょう。今まで数回訪れたことはありましたがこの展示の仕方も含め大いに感激しました。さすが国立!
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ということで半日どっぷり時間を費やす大いに楽しんで帰宅しました。高齢者の入館料が無料だったのもありがたかったです。
今後は月1で伺うかしら、と思いました。
posted by yunofumi at 21:17| ドタバタ日記

2018年01月28日

2018.1.24 大雪でした

1/22お昼前に雪が降り始め、どんどん世界が真っ白に。
この日、18:00より森昌子コンサートがウエスタ川越で開催。少し迷いましたが、川越ならばいざという時、歩いて帰宅できると考え、どっぷり2時間楽しみました。終了後、外に出るとちょっとした吹雪!東上線ではすぐ列車に乗れましたが、いつも5分で2駅の上福岡に着くはずが15分かかりました。自宅に帰り、降りしきる雪をものともせず、まずは雪かきをしました。
そして一夜明けた1/23朝、2階のベランダはこの通り。
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久しぶりの大雪です。仕事をお休みにして町の中を散策へ。犬と同様に雪を楽しみました。
しかし我が家の前はこの通り。
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上福岡中央公園は真っ白で幻想的。良い眺めです。
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公園の外れにある上福岡図書館で一度小休止。あったまりました。

都内では27cmの積雪。我が家は23cm。
仕事をお休みしたので久しぶりに子供の頃過ごした石川県の雪景色を思い出した1日となりました。
posted by yunofumi at 21:46| ドタバタ日記

2018年01月23日

2018.1.20 横浜散策 第7回瀬谷区(せやく)

相鉄線瀬谷駅⇒瀬谷駅北口交通広場⇒瀬谷小学校⇒横浜瀬谷北郵便局⇒長天寺(ダルマ太師)⇒相沢4丁目⇒横穴古墳跡⇒ファミリーマート瀬谷中央店⇒ジョナサン瀬谷駅前店⇒海軍道路⇒瀬谷中学校⇒本郷クリニック⇒横浜市瀬谷図書館⇒徳善寺(毘沙門天)⇒川口製糸株式会社跡⇒日枝社⇒瀬谷神明社⇒瀬谷銀行跡⇒中屋敷中央公園⇒善昌寺(恵比須神)⇒北向地蔵⇒妙光寺(大黒天)⇒竹村町バス停留所---バス----瀬谷駅⇒魚貝亭(昼食)⇒瀬谷駅南口⇒瀬谷写真館⇒世野の原の鷹見塚⇒横浜甦生病院⇒ほうさい殿⇒宝蔵寺(弁財天)⇒稲荷神社⇒西福寺(布袋尊)⇒左馬社⇒宗川寺(福禄寿)⇒全通院勢至堂(寿老人)⇒下瀬谷橋バス停留所----バス---瀬谷駅

相鉄線は正式には相模鉄道株式会社。
相模鉄道は1917年(大正6年)12月18日に創立。1921年(大正10年)に茅ケ崎駅(神奈川県茅ヶ崎市) - 寒川駅(同県高座郡寒川町)間を開業。1931年(昭和6年)に橋本駅(同県相模原市)まで全通した。
一方、神中鉄道は、鎌倉郡瀬谷村(現:横浜市瀬谷区)の素封家、小島政五郎らが中心となって起業し、1917年(大正6年)に神中軌道として設立。1919年(大正8年)には神中鉄道への商号変更をし、1926年(大正15年)に二俣川駅 - 厚木駅間を開業。その後には寒川方面から厚木駅に乗り入れた相模鉄道と接続し、旅客輸送や相模川の砂利輸送の営業を行った。その後この2社が合併したようです。以前は相模鉄道の資本関係は昭和産業と東京横浜電鉄(東横電鉄、現在の東京急行電鉄の前身の一つ)が半々の状態だったのが、1941年(昭和16年)6月に昭和産業が持ち株を東横電鉄に譲渡し、相模鉄道は完全な東横傘下となり現在に至っているようです。

長天寺(ダルマ太師)
1394年(室町時代応永元年)に開創。八福神のダルマ太師は釈尊依頼28代インドの高僧で禅宗の初祖といわれています。世寿150歳といわれ七転び八起きの縁起ダルマで親しまれているのです。
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ダルマ太師のお堂がありました。
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横穴古墳跡
長天寺の北側にあり、古墳から出土した装飾品等の品(人骨3体、直刀、金環、琥珀玉)は東京国立博物館に収められているとのことでした。現在はお寺の地面が崩れるといけないとのことで、古墳跡という碑が建っているだけでした。
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瀬谷区内を歩きはじめると「せやまる、このは」の看板がありました。
せやまるは、瀬谷区の形がコノハズク(ふくろうの仲間)に似ていることから生まれたマスコットキャラクターとのこと。
「せやまる」という名前は区民の皆さんから公募で決定され、平成14年に発表されました。メインキャラクターは「せやまる」と妹の「このは」ですが、ファミリーには「おとうさん」や「おかあさん」そして「おじいちゃん」や「おばあちゃん」もいるようです。

相鉄線瀬谷駅の北側へ伸びる海軍道路は真っ直ぐ伸びた直線道路の長さは約3km。道路の脇には450本のソメイヨシノが並び、最近では季節になると花見客を迎えてくれる桜の名所としても知られてきているとのことです。もともとは物資輸送のための旧日本海軍専用道路。敗戦後くらいに米国に接収されたとのことです。

徳善寺(毘沙門天)は曹洞宗寺院で瀬谷山というようです。開山は玄室泰存禅師で1555年(弘治元年)創建ということでした。
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毘沙門天がおられるお堂がありました。
毘沙門天のお堂の傍にタラヨウの木がありました。
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タラヨウ(多羅葉)はモチノキ科モチノキ属の常緑高木。葉は肉厚で20pほどもある長楕円形でその縁は鋸のように細かいきざぎざとなっているのです。昔は葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したりしたとのことで、寺社に多く植樹されているとのことです。葉の裏面を傷つけると字が書けることから、郵便局の木として定められており、東京中央郵便局の前にも植樹されています。実際には字を書き、切手を貼りはがきとして受け付けてもらえるのです。

また「義民川口平本建功の碑」がありました。
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これは明治政府の財政を充たすため、初代神奈川県令睦宗光が地租改正事務局を設け、その租税頭となり実施強行を示達したところこれに反対ののろしが瀬谷・二ツ橋・宮沢・和泉・深谷・汲沢・阿久和の7ヶ村に挙がり、明治7年より12年間に挙り合法的減税運動を展開し、遂に東京上等裁判所において村方の勝訴となったということがあったとのこと。しかしこの時の功労者2名(川口儀右衛門・平本平右衛門)が過労で倒れたため村民がその儀に報いるためこの碑を建てたとのことです。

川口製糸株式会社跡。
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本郷地区周辺は桑の栽培に適した土地で、かって養蚕業が栄えたとのことです。明治〜昭和初期にかけて付近に製糸工場が建ち並び、製糸業が盛んだったのです。中でも、「本郷館製糸場」は周辺の製糸場で最も長く稼働していました。そして大正時代に川口製糸株式会社と名前を改めた後、1960年頃まで製造を続けていたとのことでした。

瀬谷日枝社は鎌倉時代には既に存立していたと思われます。1538年(天文7年)小田原北条の陣屋がこの神社の隣接台地に設けられた時、この地頭松波内蔵崇拝の社として敬われたとのことです。現社殿は昭和8年の改築されたようです。
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瀬谷神明社の創立年代は不詳とのことですが、宝暦11年改築の棟札には「願主青木四郎左衛門、副願主惣氏子申し」とあるとのこと。現社殿は昭和3年旧瀬谷の村々が費用負担して造営、昭和50年には修築されたようです。
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国分寺礎石と忠魂碑。
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奈良時代の741年(天平13年)相模の国府が海老名にでき、国分寺が建立され、その七堂伽藍の偉容が伝えられています。その堂塔の内の講堂礎石を村有志が、忠魂碑の台石にと望んで1916年(大正5年)運賃諸費合わせ20円でゆずり受けました。忠魂碑には、明治10年(1877年)の西南の役から太平洋戦争までの戦死した兵241柱が刻まれています。昭和25年(1950年)まで瀬谷小学校横に建てられていましたが、その後、事情により徳善寺に移り、さらに平成9年(1997年)にこの地に移されました。

歩を進めると鎌倉古道の河津桜の並木がありました。1192年鎌倉幕府が開かれたことで鎌倉に通じる多くの径ができたようです。鎌倉古道は武蔵の国と相模の国を結ぶ重要な道でした。ここは今や散歩コースとして有名となり河津桜の名所でもあります。
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瀬谷銀行は1907年(明治40年)県央糸業金融(蚕の銀行)として資本金50万円で開業。1935年(昭和10年)鎌倉銀行に合併されるまで、地域の発展に寄与したのです。今、瀬谷銀行跡と案内のある門内には入れませんが開業時の建物などがそのまま現存されているとのことです。当時瀬谷区内では養蚕業が盛んで製糸場が多くあったことを物語っています。
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善昌寺(恵比須神)
1533年、甲斐武田氏ゆかりの人が創建した寺院とのこと。寅年だけ開帳される薬師如来像が安置されているそうです。
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そばのお堂の中には恵比寿様が安置されていました。
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北向地蔵は北向きにまつられた珍しいお地蔵さん。瀬谷柏尾道路に面していて、小さなお堂にまつられていました。
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妙光寺(大黒天)
もともとの652年(白雉3年)に明光比丘尼が建てた庵を開基とするとのこと。大同年間(806〜810)に辨通が一寺に成して天台宗福昌山明光寺と称していたところ、1282年(弘安5年)日蓮上人が身延山から池上(後の池上本門寺)へ向う際、この寺に立ち寄り一泊し説教などを聞きこの寺住職文教は教化され改宗、寺名を蓮昌山妙光寺と改めて、日蓮上人を開山としたとのことです。
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本堂傍に大黒天のお堂がありました。
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世野の原の鷹見塚(せやのはらのたかみづか)
このぽっこりとした丘は、一里塚それとも古墳と思いましたが実は江戸時代に鷹狩が行われたときの指揮所の後だとのこと。世野は今の瀬谷のことだそうです。
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宝蔵寺は1066年(治暦2年)秀恵比丘尼が不動庵を開基されたのがはじまり、1396年(応永3年)空元法印により古義真言宗感応院の末寺として開山されたとのこと。1649年(慶安2年)徳川幕府(3代将軍家光公)より、領地1丁2反9畝、境内地6反、寺領8石3斗、の御朱印を賜りその後、菊のご紋章を許されたようです。昔の本堂は当初、墓地に隣接していたとのことですが三度の火災焼失で現在地に移り、今日の本堂は1844年(天保15年)の建造と伺いました。
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弁財天を奉安したお堂がありました。弁財天は八福神の中では唯一の女神であり、智恵財福のご利益があり、芸道技術の神としても崇拝されているとのことです。
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西福寺は、1534年(天文3年)の創建と伝えられており、圓中(天和元年1681年寂)が法流開山したとのことです。
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本堂傍に仏足跡があり、わが身の足が長く丈夫で元気に支えてもらいたくて撫でてきました。
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寺社内には布袋尊が安置されていました。
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左馬社(さばしゃ)。
昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民俗信仰が盛んだったとのことです。(七サバ参り)この左馬社は、「七サバ神社」と呼ばれるうちの一つでご祭神は左馬頭源義朝。
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隣接の真言宗西福寺が、この左馬社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願したとのことだとのこと。
梵鐘は1861年(江戸時代の文久元年)に鋳造されたのが、太平洋戦争の供出でなくなったのを、1957年(昭和32年)氏子の協力で新たに現在の鐘がつくられたのでした。
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宗川寺は、石川宗川が開基、富士重須本門寺第十二世日賢上人が寛永2年(1625)開山したといわれているとのこと。江戸時代には、宗川寺の東方80mほどの所に問屋場(中原街道の中継所)が置かれていたということです。
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福禄寿のお堂がありました。
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宗川寺の大樹夫婦銀杏。
山門を入ると左右の大きな夫婦銀杏は昔から縁結び、安産祈願の信仰を受け、いまは横浜市の名木と指定された大樹です。
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中原街道瀬谷問屋場跡。
中原街道瀬谷問屋場は1578年(天正6年)小田原北條氏の関東経営の駅路として、中原街道瀬谷に設けられ、のち徳川氏の江戸開府により駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を幕府より託され、江戸ー平塚間の五駅の中宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代270年にわたって、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果したとのことです。

全通院勢至堂(寿老人)
全通院勢至堂の建立年代は不詳、当初は阿弥陀堂として建立され、深見村の中丸佐源太が徳善寺に納めた勢至菩薩像をこの堂に移し、勢至堂としたことが現在にいたっているとのこと。
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御堂の中は暗かったのですが寿老人をカメラで捉えられました。
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下瀬谷分教場跡(勢至堂)の大藤。
1889年(明治22年)の市町村制の実施により瀬谷村、二ツ橋村、宮沢村が合併、一村となり、この合併により瀬谷小学校の通学区域が広くなったため、低学年児童の通学の便を考慮して、1890年(明治23年)に分教場をこの全通院勢至堂境内に設けました。この分教場は1943年(昭和18年)の学区改正によって廃校になるまで、50年にわたり数多くの児童が通学しました。また、境内には「横浜市の名木古木」に指定されている藤の大樹がありました。お花を見にうかがうようです。

本日は瀬谷の八福神巡りでした。七福神の由来は徳川家康が七福神信仰を採り入れたことに始まり、江戸時代末期には、人々が開運を求めて七福神詣でを行うようになったことがはじまりのようです。瀬谷では、昭和59年正月より、七福神に達磨大師を加えてそれぞれの寺院に福神をまつり、全国でも珍しい「瀬谷八福神」ができ、今日はこの「瀬谷八福神」巡りをしたのです。廻った順番を整理すると以下のようになります。
@長天寺(ダルマ大師)A徳善寺(毘沙門天)B善昌寺(恵比須神)C妙光寺(大黒尊天)D宝蔵寺(弁財天)E西福寺(布袋尊)F宗川寺(福禄寿)G全通寺(寿老人)
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瀬谷区では八福神巡りのスタンプ用紙がありました。道順も書かれており、とても親切でした。どうやらすべて歩くと13km超えのようです。本日は駅を挟み北口出発の後4福神を巡り、一旦バスで駅に戻り昼食。午後南口出発の後続きでまた4福神を巡り、またでバスで駅に戻った次第で全歩程約8kmだったようです。
本日の講師浅井先生、TD清水さんのお世話で今日は参加者24人。午前は思いがけず日差しもあり気温9℃、寒い時期とはいえ快適に、9:30〜16:00、1日の歩程約2万歩を無事終了。また次も元気に横浜市内をウォーキングできるようにがんばります。
posted by yunofumi at 20:33| あちこちウォーク

2018年01月21日

2018.1.14 年の初めのMBTポールウォーキング

今朝は9:00代々木公園原宿門にいつものメンバーで集合。
実は自宅出発7:30頃はほぼ気温0℃。ウォーキング中は約8℃。公園内は木々の間からつむじ風も吹き、やや寒々でしたがまずは元気に終了。
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その後はいつものように神宮の「杜のテラス」でお茶とおしゃべりを楽しんだ後、神宮にお参りしました。
まだまだお正月気分で参拝客も多かったです。
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そして参道では第42回明治神宮奉納全国氷彫刻展が開催中でした。
明治神宮賞・全日本氷彫刻美会大賞「フェニックス」赤羽目健吾作(帝国ホテル)
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明治神宮賞、全日本氷彫刻美会会長賞「光の女神」木村裕昭作(浦和ロイヤルパインズホテル)
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いずれも朝早くから彫り上げたようでそれは見事で大いに堪能しました。

新年早々のポールウォーキングは思いがけない氷の彫刻を見られるきっかけを与えてくれました。きっと元気に頑張って!との神の思し召しと思いました。今年も日々頑張れそうです。
posted by yunofumi at 15:57| あちこちウォーク

2018年01月16日

2018.1.13 山手線歴史探訪ウォーク 第5回

目白駅〜新宿駅
JR目白駅⇒学習院大学⇒豊島消防署⇒目白警察署⇒千登世大橋・千登世小橋⇒高田1丁目⇒宿坂道・目黒不動・金乗院⇒南蔵院⇒山吹の里の碑⇒面影橋⇒甘泉園公園⇒堀部安兵衛の碑⇒西早稲田交差点・高田馬場跡・八幡鮨⇒グランド坂通り⇒都電荒川線早稲田停留所⇒豊橋・神田川⇒高田第二公園⇒肥後細川庭園⇒水神社・胸突坂・関口芭蕉庵⇒椿山壮⇒神田川桜並木⇒江戸川公園⇒大滝橋⇒旧関口町⇒東京外国語学校早稲田校⇒リーガロイヤルホテル(昼食)⇒大隈庭園⇒早稲田大学・演劇博物館⇒龍泉院⇒おそば三朝庵⇒早稲田高校・中学校⇒夏目坂通り・夏目漱石誕生の地碑⇒東京メトロ早稲田駅⇒穴八幡宮⇒放生寺⇒都立戸山公園・箱根山・戸山教会⇒戸山生涯学習館⇒抜辨天北公園⇒大聖院・紅皿の墓⇒西向天神社⇒新宿文化センター⇒日清食品⇒花園神社⇒新宿ゴールデン街⇒JR新宿駅新南改札口

本日は山手線5回目、都内ウォーキングで伺ったことがある所も幾つか含まれていますがまた違った趣もあるかと思い、参加しました。

学習院大学
1847年京都御所のそばに公家の教育機関として創立。1849年孔明天皇が学習院と命名。
1877年東京に華族学校が開設。明治天皇より学習院の名称を継承とのことで現在に至っているようです。1949年に新制の学習院が開学。現在5学部17学科、大学院は6研究科があるとのこと。門は昔のままのようでした。
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目白警察署は1923年に創設され豊島区を中心に受け持っている警察署。目白警察署の入口に掲げられている旭日章は、旭日を桜が囲んでいる図柄でした。この図柄は、警視庁管内に102署ある警察署の中でも目白警察署だけとのこと。これって旧近衛師団(皇居守護や儀仗に任じた旧陸軍の師団)が用いていたもので、学習院大学警備を担当する目白警察署が、昭和2年の庁舎移築の際に、その使用を特別に認められたものとのことでした。
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千登世橋(ちとせばし)は目白1丁目と雑司が谷との境界にある跨道橋。橋上に目白通りを通し、明治通りとの立体交差になっており、東側に連続する千登世小橋で都電荒川線を跨いでいました。目白駅・学習院大学方向の西詰めに明治通りへの斜路も構築されています。戦前の完成で、幹線道路同士の立体交差としては都内で最初のもので、今なお現役であるため土木技術的価値も高く「東京都の著名橋」の一つなのです。 1990年(平成2年)には町の美観と調和させるため親柱や高欄の意匠が改修されたとのことです。

宿坂道(しゅくざかみち)は鎌倉街道に面していたようです。今から三百年ほど前、このあたりには樹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみの坂道として狐狸などがいて通行人を化かしたなどという話もあるようです。
この左手には目黒不動のある金乗院です。
目黒不動・金乗院(こんじょういん)は、1573年(天正年間)あたりの創建ではないかと推定されているようです。当初は中野にある宝仙寺の末寺で蓮花山金乗院といったようですが、後に護国寺の末寺になり神霊山金乗院となったようです。現在の本堂は1971年(昭和46年)に再建されたもの。また目白不動尊は、元々はこの寺にあったのではなく、1kmほど離れた文京区関口の新長谷寺にあったということです。
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南蔵院は三遊亭円朝の名作『怪談乳房榎』の舞台になったお寺。境内には、植物園のように、いたるところに鉢植えが置いてありました。本堂の階段にも鉢植えがびっしり。本堂はコンクリート造りで新しそうでした。花が咲く時期に訪れたいものです。
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山吹の里の碑。
都内ではもう数少なくなった路面電車のうちの一つが都電荒川線。その荒川線の駅を終点の早稲田駅から出発して次の駅が「面影橋」。そのすぐ近くに「山吹の里」の碑が建っていました。
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「山吹の里」は太田道灌が、鷹狩りに出かけた際ににわか雨にあって付近のみすぼらしい民家に立ち寄って蓑を借りようとしたところ、出てきた少女は山吹の花一輪を差し出したのです。道灌は意味がわからず怒ってしまったのですが、後に「後拾遺和歌集」で中務卿兼明親王(914〜87)が詠んだ和歌、「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき 」という和歌を踏まえ、「実の」と「蓑」を掛けていたということを知りました。古歌を知らなかったことを恥じた道灌は、それ以後歌道に励んだということです。この場所から、もっと東のほうに行ったところに新宿区山吹町があり、そこからこの辺りまでの一帯を通称「山吹の里」といったそうで、それもやはりこの伝説にちなんだもののようです。近くには「山吹の里公園」もあるとのことです。この「山吹の碑」は1686年(貞享3年)に建てられたもので、最初は面影橋の辺にあったようです。

甘泉園公園は、区立唯一の回遊式庭園です。
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「甘泉園」の名は、ここから湧く泉の水がお茶に適していたところからきたといわれています。池を抱く森は周辺とは別世界の静けさを演出し、四季を通して、訪れた人々をもてなすのです。ここは、江戸時代宝永年間(1704-1711年)に徳川御三家の一つ尾張徳川家の拝領地となり、その後1774年(安永3年)に初代清水家の江戸下屋敷があったとのこと。明治以降は、子爵相馬邸の庭園として整備され、昭和には早稲田大学が付属甘泉園として譲り受けその後昭和44年には区立公園となったのです。この公園は現在、ツツジの花、アジサイの花、新緑やモミジの紅葉、冬の雪吊りなど、四季折々に見どころがある日本庭園として人々に親しまれているとのことでした。

堀部安兵衛助太刀の場所の碑。
1694年(元禄7年2月11日のこと、安兵衛は市ヶ谷から喜久井町を通り、馬場下の小倉屋で、枡酒をあおると高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門の果し合いに助太刀し相手方三人を切り倒したのです。この果し合いの場所は、現在の西北診療所のあたりといわれています。この決闘で助太刀をした安兵衛の活躍が江戸中で評判になり、後に講談や芝居の題材となりました。 安兵衛は、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)切腹後、終始あだ討ち推進派として活躍。元禄15年吉良邸に討ち入ったその功績が称えられ、1910年(明治43年)に安兵衛の石碑が旧高田馬場、現在の茶屋町通りの一隅に建立されたとのこと。その後、昭和46年に現在の水稲荷神社の現在の場所に移されたようです。
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新目白通りから、北東から南西に早稲田通りの西早稲田交差点まで上る坂道はグランド坂通りとあり、新目白通りから、北東から南西に早稲田通りの西早稲田交差点まで上る坂道とのこと。早稲田大学早稲田キャンパス(旧称:西早稲田キャンパス)の中を通り、坂名の由来となったグランドがあった所に位置する早稲田大学総合学術情報センター(大学図書館等がある)は、この坂道の北側に接しています。道筋は逆S字型ですが、坂中央部が長い直線になっています。

都電荒川線早稲田停留所は、西早稲田一丁目の新目白通り上にあり、都電荒川線の停留場で同線の終点でもあります。

豊橋(ゆたかばし)・神田川。
都電早稲田駅から北に入ってすぐのところにかかる橋。逆に南に進めば早稲田大学脇の「大隈通り」に入ります。橋の北側を少し行くと豊川稲荷があり、その脇に日本女子大前につながる「豊坂」という坂道があるのです。橋の名前は直接にはこれらにちなんだものかと思われます。 橋自体は変哲のないコンクリート橋ですが、周囲の景観は変化に富んでいて散歩向き。付近の両岸は桜の名所で、初夏の緑もなかなかのもので、南側の学生街、北側の高田1丁目あたり、いずれも町並みに特色があってちょっと楽しいのです。

肥後細川庭園は細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした池泉回遊式庭園。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、変化に富んだ景観。湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立てています。その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が、秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。
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目白通りから、椿山荘と和敬塾の間を神田川に向かって下る急な坂、胸突坂があります。神田川にかかる駒塚橋から見ると、左手の水神社の白い鳥井と、右手の関口芭蕉庵の塀に挟まれた細い道が、生い茂る木々の間を上っていくのが見えます。坂下には水神社(神田上水の守護神)があります。坂道を挟んで向かい側には、松尾芭蕉ゆかりの関口芭蕉庵がありました。

関口芭蕉庵。
江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644〜1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んでいました。当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場か水番屋に住んだといわれているのです。後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建てたのが現在の芭蕉庵につながっているとのこと。現在のものは第2次大戦後の建築だそうです。

椿山壮はホテルとして1992年(平成4年)に開業。2万坪の日本庭園で知られる老舗結婚式場が敷地内にあります。

リーガロイヤルホテル東京に隣接しているのが大隈庭園。
広い芝生が広がる和洋折衷式の庭園。作者は佐々木可村とのこと。大隈邸の竣工した明治20年に庭園も完成していたようです。
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夏目坂通り・夏目漱石誕生の地碑。
昭和41年、漱石の生誕100年を記念して建てられ、文字は遺弟子の安倍能成氏によるもの。漱石は1867年(慶応3年)、この地に生まれ、誕生の地から若松町の方へと上る坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克とのこと。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷土として土着していた夏目氏は、元禄期以降、馬場下の名主を世襲していたため、町名を当家にゆかりのあるものとしたようです。
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穴八幡宮。
蟲封じのほか、商売繁盛や出世、開運に利益があるとされていわれています。旧称は高田八幡宮。1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったということです。1636年(寛永13年)ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神としたのです。1641年(寛永18年)宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称し、3代将軍徳川家光が、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としたのです。
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歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納したことから、流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納されているのです。江戸の庶民からも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷は有名とのこと。1879年(明治12年)には皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行っているとのことです。

都立戸山公園・箱根山。
都立戸山公園は尾張藩の下屋敷。当時は「戸山荘」と呼ばれ、約45万uの広大な敷地には池や山のほか、多くの寺社もあったようです。第2次世界大戦後はGHQ(連合国軍総司令部)の接収を経て、一部が都立公園として整備されたのです。公園は明治通りをはさみ「箱根山地区」「大久保地区」の2エリアに分かれています。春から夏にかけてはサクラやツツジ、秋は紅葉が見ごろ。箱根山に登り「登頂証明書」をもらうことができました。
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箱根山は標高44.6mで山手線の内側で最高峰。江戸時代、この地には尾張藩の広大な下屋敷があったので2代藩主の徳川光友が庭園を造った際、池を掘った土で築かれた人造の山が今もその姿をとどめています。明治維新後、土地の所有が政府に移ると、庭園は壊され、陸軍戸山学校が設けら、射撃場、軍医学校……。軍事面で近代国家を支える拠点となったのです。

抜辨天。
白河天皇の時代、1086年(応徳3年)鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願しました。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのがこの厳島神社の始めと伝えられています。参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられています。また山之手七福神を構成する弁財天でもあるとのことです。
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大聖院・紅皿の墓。
太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(1基)、燈籠(2基)、水鉢(1基)、花立(2基)から構成されています。板碑は区内で唯一のものとなる中世の十三仏板碑。また、板碑の前には12代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられていました。
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西向天神社。
1282年(安貞2年)に栂尾明恵上人が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれています。旧・東大久保村鎮守。祭神菅原道真。この方は日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇ったのです。
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花園神社は宿場町としての新宿が栄えるとともに、総鎮守として多くの人々の信仰を集めていました。1780年(安永9年)と1811年(文化8年)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行して好評を博しました。花園神社と芸能の縁は、この頃から始まったものです。やがて明治維新により江戸は東京へ名が改まり、1885年(明治18年)に日本鉄道品川線(赤羽〜品川)が開業し、新宿駅ができました。「内藤新宿」は南豊島郡内藤新宿町から、豊多摩郡内藤新宿町へ、そして1920年(大正9年)に東京市四谷区に編入され、「新宿」となりました。戦争を経て1947年(昭和22年)に四谷区、牛込区、淀橋区の三区が統合され、ここに初めて「新宿区」が誕生したのです。戦後、甲州街道と青梅街道が交差する開かれた街「新宿」は、雑多なエネルギーに満ちた新しい文化の発信地になりました。唐十郎のテント芝居が行われるなど花園神社は、そうした文化を育む役割も担ってきたのです。芸能の起源が神事であるように、花園神社と新宿の文化もまた、密接に結びついているのです。
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新宿ゴールデン街は新宿区の飲食店街でおよそ2000坪ほどの狭い区画に低層の木造長屋が連なっており、200軒以上の小さな飲食店が密集している。昼間なのでどうやら巡り歩くことができました。

本日はセンター試験初日で多くの若者を見受けました。私どもの参加者は16名、そのうち珍しく男性が6名含まれていました。案内は岡本先生とTD長田さん。朝自宅出発時は気温はマイナス、日中も7℃くらいでしたが晴天で風もなく、9:30〜15:30過ぎまで大いに楽しみながらのウォーキングでした。本日で歩程は約半分。今後もがんばります。
posted by yunofumi at 00:42| あちこちウォーク

2018年01月14日

2018.1.11 山手線歴史探訪ウォーク 第4回

巣鴨駅〜目白駅

JR巣鴨駅⇒巣鴨橋⇒徳川慶喜巣鴨屋敷跡⇒染井吉野石碑・巣鴨桜並木通り⇒真性寺・銅造地蔵菩薩坐像⇒都立染井霊園⇒慈眼寺⇒本妙寺⇒東京都中央卸市場豊島市場⇒高岩寺・とげぬき地蔵⇒巣鴨地蔵通商店街・みずの⇒猿田彦大神・庚申堂⇒都電荒川線庚申塚駅=都電荒川線向原駅⇒東池袋3丁目都バス停留所⇒豊島消防署⇒豊島郵便局⇒サンシャインシティ・プリンスホテル・レストランバイエルン(昼食)⇒東池袋中央公園・巣鴨プリズン跡地⇒帝京平成大学⇒都電荒川線東池袋4丁目(サンシャイン前)停留所⇒大塚5丁目⇒日本大学豊山高校⇒護国寺惣門⇒護国寺⇒雑司ヶ谷霊園⇒雑司が谷旧宣教師館⇒都下水道局雑司ヶ谷庁舎⇒清立院・毘沙門天⇒南池袋4丁目⇒大鳥神社・七曲りの水⇒鬼子母神大門欅通り⇒鬼子母神・武芳稲荷大明神・上川口屋・おせんだんご⇒鬼子母神西参道⇒目白小学校⇒川村学園⇒学習院⇒JR目白駅

徳川慶喜巣鴨屋敷跡。
巣鴨駅の向かい側に石柱と案内板があります。
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徳川慶喜は、明治維新のどさくさの際、新政府から慶喜追討令が出され、寛永寺、水戸講道館で謹慎後、静岡で謹慎し、謹慎が解除された後も静岡で暮らしており、東京に戻ったのは明治30年でした。そして、徳川慶喜は、明治30年から4年間、巣鴨に住んでいました。その後、転居したのですがこれは、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのことだったとのこと。その翌年3月2日には皇居に参内し、明治天皇に拝謁しています。 しかし、明治34年に、小日向第六天町(現文京区小日向一、二丁目)に転居しました。 徳川慶喜の小日向の屋敷跡は、現在国際仏教学大学院大学となっています。 徳川慶喜は、第六天町に転居した後、大正2年に享年77歳でなくなっています。

染井吉野石碑・巣鴨桜並木通り。
今は冬なので木々の並木をみました。「ソメイヨシノ」は巣鴨(染井エリア)の発祥なのです。

真性寺・銅造地蔵菩薩坐像。
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江戸六地蔵(えどろくじぞう)は、宝永から享保年間にかけて江戸市中の6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像。一番品川寺、二番太宗寺、三番真性寺、四番東禅寺、五霊厳寺、六番永代寺があるとのこと。江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進を得て、江戸の出入口6箇所の地蔵菩薩坐像を造立したのです。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したのです。但し、江東区永代寺の第六番は富岡八幡宮の二の鳥居付近にあったのが、明治元年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈により、旧永代寺が廃寺になり取り壊されたようです。ということで第六番の仏様が、上野の浄名院(台東区上野桜木二丁目6-4)に祀られているとのことです。

染井霊園(そめいれいえん)は都営霊園。旧称は染井墓地。水戸徳川家墓所、水戸徳川公爵家や府中松平家の江戸期の墓、徳川斉昭の生母や徳川昭武の生母、側室高橋悦子の墓があります。面積は67,911u、およそ5500基の墓があり、8ヶ所ある都営霊園の中では最も規模が小さいとのことです。園内には約100本のソメイヨシノが植えられ、遊歩道の一部は桜並木になっており桜の名所として知られています。高村光雲、光太郎、智恵子のお墓を見ました。

慈眼寺はもともと深川六間掘猿子橋に創建。色々移転後1912年(明治45年)谷中妙伝寺と合併の上、この地へ移転、山号を正寿山と改号しました。現境内には、芥川龍之介、谷崎潤一郎、司馬江漢、小林平八郎等の墓がありました。

本妙寺(ほんみょうじ)は、巣鴨五丁目にある法華宗陣門流の東京別院。1572年(元亀2年)日慶が開山、徳川家康の家臣らのうち三河国額田郡長福寺(現在愛知県岡崎市)の檀家であった武将を開基として、遠江国曳馬(現在静岡県浜松市中区曳馬)に創建された寺。1590年(天正18年)家康の関東入国の際、武蔵国豊島郡の江戸城内に移り、その後1616年(元和2年)小石川(現在東京都文京区)へ移ったのです。1636年(寛永13年)、小石川の伽藍が全焼し、幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷五丁目)へ移転。1657年(明暦3年)の明暦の大火はこの寺の御施餓鬼のお焚き上げから火が出たとも伝えられるため現在の豊島区の境内の墓地には明暦の大火で亡くなった人々の菩提を弔うために建てられた供養塔がありました。1667年(寛文年間)、幕府により、法華宗勝劣各派の触頭となる。1910年(明治43年)現在の豊島区巣鴨五丁目の地へ移転した。千葉周作、森山多吉郎、遠山景元のお墓を見ました。
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東京都中央卸市場豊島市場.
豊島市場の起源は、16世紀頃の「辻のやっちゃ場」駒込土物店(つちものだな)。駒込付近の農民が江戸へ青物をかつぎ売りの途次、駒込天栄寺境内にあった「さいかち」の大樹に憩い、分荷したのが始まりで、都内最古の市場であるといわれています。江戸時代には、神田、千住の両市場とともに青物三大市場のひとつに数えられ、幕府の御用市場として栄えたようです。その後東京市となり、関東大震災後の帝都復興事業を経て、大東京市域に散在していた私設市場も統合され、昭和12年3月東京中央卸売市場豊島分場としてこの地に開業し今に至っているようです。

高岩寺・とげぬき地蔵
高岩寺は1596年(慶長元年)に江戸湯島に開かれ約60年後、下谷屏風坂に移り巣鴨には1891年(明治24年)に移転してきました。ご本尊は「とげぬき地蔵」とよばれる延命地蔵菩薩。こちらの地蔵菩薩様は秘仏で見ることはできません。
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1657年江戸時代の明暦の大火で、檀徒の一人「屋根屋喜平次」は妻をなくし、その供養のため、「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進しました。  この聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしかうまれ、これが「洗い観音」の起源。その後、永年に渡ってタワシで洗っていた聖観世音菩薩の顔などもしだいにすりへってきたので、平成4年、この仏像にご隠退をいただき、あたらしい聖観世音菩薩の開眼式を執行、新しい仏像の製作者は彫刻家の八柳尚樹先生、寄進者は仲堀義江氏で今はタワシを廃止し布で洗うことになっています。今日も長い行列ができていました。またこの門前の巣鴨地蔵通商店街では「みずの」の塩大福を購入しました。

猿田彦大神・庚申堂。
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1502(文亀2年)、高さ八尺(約2.4m)の庚申塔をこの地に造立したのが創祀といわれているとのこと。1657年(明暦3年)、明暦の大火(振り袖火事)が発生した時、上州・秩父・川越方面より復興に使用される木材がここに多く集積されたのです。ある時、庚申堂の碑に立て掛けられた竹木が重心を失って倒れ、庚申塔に当り、塔は五つに砕け、村中で協議し、丈を縮めた塔を再建し、砕けた塔はその塚の土中に埋めたとのこと。この場所は旧中山道(現・地蔵通り)と旧王子道(現・折戸通り)が交差しており、板橋宿に至る途中の立場(たてば・休憩所)として、賑わった場所でもあったのです。明治初期には、千葉県銚子市の猿田神社の御分霊を勧請、その後色々の経緯があったようですが1982年(昭和57年)に庚申堂奉賛会が発足、1991年(平成3年)に山門の改築に至っているとのことでした。

都電荒川線は東京に残る唯一の都電で、三ノ輪橋〜早稲田間(12.2km・30停留場)を運行しています。地域の身近な足として長年親しまれ、沿線には、桜やバラなど花の見どころや歴史・文化に触れられる名所旧跡、生活感あふれる昔ながらの商店街など多様で魅力あるスポットが多くあるようです。本日は庚申塚駅から向原駅まで乗車。お客さんが多くて驚きました。また東京都交通局では、都電荒川線を「東京さくらトラム」という愛称にしているとのことでした。
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東池袋中央公園・巣鴨プリズン跡地。
ここはかつての巣鴨刑務所跡地。後に東京拘置所と改称、さらに1945年の第二次大戦後にはGHQに接収されて「スガモプリズン」と呼ばれた所。さらにその後、巣鴨刑務所とされたが1958年に閉鎖されたようです。端のほうに「永久平和を願って」と彫られた石碑があり、背面には以下の文言がありました。「第二次世界大戦後、東京市ヶ谷において極東軍事裁判が課した刑および他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。戦争による悲劇を繰り返さないため、この地に前述の遺跡とし、この碑を建立する。昭和55年6月」

護国寺惣門は、護国寺の方丈への軸線上にあり、寺院の門と共に住宅の門という、性格をあわせもっているとのこと。 形式は、社寺系のものではなく、江戸時代武家屋敷門の五万石以上の大名クラスの、格式に相当する形式と偉容で当時が幕府の厚い庇護のもとで、高い格式を保持した歴史を反映しているようです。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるのに対して、この門は、中期元禄年間のもので、特に貴重な文化財となっているのです。
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護国寺は1681年(天和元年)に徳川綱吉が母、桂昌院の願いで桂昌院の祈願寺として建立したとのこと。本尊は桂昌院念持仏の琥珀如意輪観音 (絶対秘仏)。本堂(観音堂)本尊は堀田正虎の母・栄隆院尼寄附の如意輪観世音菩薩。江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所でもあるとのこと。江戸時代には浅草寺、回向院に次いで出開帳の宿寺として人気があったようです。
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雑司ヶ谷霊園は、東京都立の霊園で面積は約115,400u。夏目漱石をはじめジョン万次郎、小泉八雲、島村抱月、竹久夢二、泉鏡花、東條英機、永井荷風、サトウハチロー、東郷青児、大川橋蔵など著名人の墓が多くありました。
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雑司が谷旧宣教師館は、明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたもの。マッケーレブは、1941年(昭和16年)に帰国するまでの34年間この家で生活をしたのです。豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築とのこと。建物は、木造総2階建て住宅で、全体のデザインはシングル様式、細部のデザインはカーペンターゴシック様式、、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した質素な外国人住宅なのです。
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七曲りとは、鬼子母神の参道から大鳥神社に抜ける路地の名前。クネクネと7回曲がることからこう呼ばれているのです。この七曲りの中ほどに昔から近所の共同井戸として使われていた井戸がありこれを七曲りの水と呼んでいます。
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大鳥神社
もともとは正徳年間に鬼子母神堂境内に、鷲明神として創祀されたのが始まり。明治維新、神仏分離の令に依り大門欅並木の料亭蝶屋地内に大鳥神社と改称し、仮遷座したのです。その後旧幕臣矢嶋昌郁氏が自己の宅地を社地として奉献、永久鎮座の地として定まり、現在に至っているようです。
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鬼子母神堂は、安産・子育(こやす)の神様である鬼子母神をお祀りするお堂。
鬼子母神は1578年(天正6年)の創建で現在の本殿は1664年(寛文4年)に、加賀・前田利常の息女自昌院殿の寄進により建立されたとのこと。
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その前田家から、境内での営業を許された「あめ屋」から始まったお店が「上川口家」。家紋が看板に刻まれていましたがこれは「鶴丸」とのこと。森蘭丸などが使用した家紋らしいのです。今の店主は13代目とのこと。お店には、数々の昔懐かしい駄菓子が並んでいました。
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また境内にはおせん団子もありました。鬼子母神に千人の子供がいたことにあやかり、たくさんの子宝に恵まれるようにという願いに由来しているようです。江戸時代には参詣の人々が境内で休むとき、また鬼子母神詣での土産として親しまれましたのです。

本日は晴天で風もなく気温10℃はウォーキングにぴったり。岡本先生、TD大木さんの付き添いで8km 20000歩。朝9:30から約5時間。のんびりペースでしたので16人は和気あいあいと無事完歩。昼食がバイキングと気ままに過ごせたこともよかったと思いました。
posted by yunofumi at 21:20| あちこちウォーク

2018年01月05日

2018.1.3 mbt初詣ウォーク 世田谷線を歩く

東急世田谷線は、都内でも数少ない路面電車のひとつ。カラフルな可愛い2両編成の電車が約5kmを10駅に停車しながらのんびり走っていました。
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この電車は都電荒川線と同様の路面電車。豪徳寺、松陰神社などの名所、世田谷区役所をはじめ行政施設も多いようで乗客はそれなりの様子でした。ということで本日はこの路線に沿ってのウォーキングです。

東急世田谷線三軒茶屋駅⇒西太子堂⇒若林⇒松陰神社前⇒松陰神社⇒松下村塾学び館⇒Boulangerie Sudou⇒世田谷駅⇒上町商店街⇒鹿港⇒上町駅⇒烏山川緑道⇒宮の坂駅⇒豪徳寺⇒豪徳寺商店街⇒やきいも専門店ふじ⇒小田急豪徳寺駅⇒山下駅⇒松原駅⇒赤松公園⇒下高井戸商店街⇒下高井戸駅

松陰神社のあるこの地はもと長州藩主の別邸があった所。安政の大獄で刑死した吉田松陰を4年後の1863年(文久3年)に高杉晋作などの門人が小塚原回向院の松陰の墓をこの地に改葬したのです。そして1882年(明治15年)墓の傍に松陰を祀る神社が創建されたのです。松陰50年祭には伊藤博文などが寄進した灯籠26基、鳥居は木戸孝允寄進したとのことです。
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Boulangerie Sudou(ブーランジェリースドウ)。
焼き菓子とパンのお店。ちょっと高めのお値段のようですがとっても評判や良いそうです。
本日はお正月でお休み。もっとも毎週日月、不定期に火曜も休むことがあるそうです。
それでも成り立つわけですから、一度うかがってみるようです。

鹿港(Lu-Gang)。
肉まん、あんまんのお店。材料の豚肉、ネギ、味付けなどとことんこだわっているようです。
すぐに売れ切れになるようで予約も可とか。面白いと思ったのは台湾スタイルの自家製豆乳はじめました!とのこと。ここもお正月で本日は休み。再度うかがうようです。

この緑道に沿って、豪徳寺、世田谷城址公園、松陰神社、太子堂円泉寺等があるようです。
世田谷区では、昭和44年以降暗渠化された中小河川の上部を有効利用する方法として緑道の造成に力をいれてきたとのことです。緑道は自然を取り戻し、歩行者の安全と緊急避難通路の確保などを目的として作られ、烏山川緑道をはじめ8本の緑道が昭和54年度に完成したのです。烏山川緑道は延長約7km、千歳台にある千歳温水プールあたりから、三宿の北沢川緑道との合流地点まで続いているとのことでした。
私たちは豪徳寺橋や清涼橋の案内があった所を楽しくウォーキングしました。
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江ノ電601号。
世田谷線の前身は玉電(渋谷〜二子玉川園、二子玉川園〜砧本村)。昭和44年に廃止されたとのこと。601は相棒の651と共に、平成2年春と、大型車の中では一番最後に廃車になっています。601は、世田谷線の宮の坂駅前にある宮の坂区民会館に鎮座、651は運転台のみが、江ノ電江ノ島駅近くの扇屋という和菓子屋さんの店頭にあるそうです。ちなみに扇屋は、「江ノ電もなか」の販売元だそうです。
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大谿山豪徳寺(だいけいざんごうとくじ)。
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この寺院付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、1590年(天正18年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされているとのこと。1480年(文明12年)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結び当初は臨済宗に属していたのが、1584年(天正12年)曹洞宗に転じたようです。
豪徳寺仏殿。
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豪徳寺本殿。
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梵鐘は1679年(延宝7年)完成以来ここにあるのです。
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1633年(寛永10年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備したのです。彦根藩井伊家墓所、井伊直弼墓があります。
豪徳寺は、台東区「浅草今戸神社」、新宿区落合南長崎「自性院」と並び、「招き猫発祥の地」としても有名です。江戸藩邸に暮らしていた井伊直孝がある日、鷹狩りの帰りにこの付近を通りがかった時に見かけたネコが自分を招いているように感じた井伊直孝が門内に入ると、急に天候が雷雨に!ネコのおかげで、雷雨を避けることができ、和尚さんのありがたい法話も聞くこともできて喜んだ直孝はネコとの偶然の出会いを喜んだのが「招きネコ」伝説のはじまりとのこと。豪徳寺では招きネコのことを「招福猫児(まねぎねこ)」と呼んでいるようです。
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豪徳寺の売店で購入できる招き猫は小判を持ったりすることもなくシンプルな意匠で、すべて「右手」で招いています。

やきいも専門店ふじ。
東京では珍しい焼き芋の専門店です。甘〜い安納芋、それより甘い紅はるか。紫芋やハロウィンスウィートなどの変わり種もあるとのこと。私はにんじん芋をいただきました。これも甘かったです。
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本日の集合は三軒茶屋駅8:45ということで5:00起床、上福岡駅7:00過ぎに乗車、やれやれと思っていたらふじみ野駅過ぎてすぐ停車!!人身事故発生!!これより1時間10分車中に缶詰に。とても集合に間に合わないと思い、皆さんには出発していただきました。そして池袋に到着後、携帯メールでやり取りし、松陰神社で合流、予定通りにウォーキングを楽しみました。
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そうそう終点の下高井戸駅で一旦解散。でもお昼です!と三軒茶屋に戻りました。
この時、注目の猫電車に乗れてラッキー!
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つり革もかわいい。
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そして車内床には猫の足跡。
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三軒茶屋では世田谷区立スカイキャロット26階に上りまずは展望ロビーへ。
FM世田谷サテライトスタジオではゲストの小室等さんがにこやかに話しておられました。
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富士山もばっちりです。
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御馳走はさすがホテルオークラ!とっても美味しかったです。
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今朝はスタート時気温2℃、日中は9℃で次第に風が強くなりましたが総勢13名はお正月早々大いに楽しみました。
皆さま!またご一緒しましょう!
posted by yunofumi at 10:48| あちこちウォーク

2018年01月01日

2018.1.1初詣

今年もお陰様で穏やかに年が明けました。
次女の手作りのお節料理でまずはおめでとう!!
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その後は、年賀状を見ながらのんびりまったり。
玄関先にはその雰囲気をいかんなく漂わせている我が家です。
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午後になり町内の八雲神社と高齢になっている所沢市中富にある三富富岡総鎮守の多聞院(毘沙門天)と神明社に初詣へ。

神明社の拝殿。
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多聞院、毘沙門堂。
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「身がわり寅(とら)」は、毘沙門天の化身とされる寅に、身に降りかかる災いを託して奉納するというものです。いつも三が日で堂の欄干部までが小さな黄色でびっしりと埋め尽くされる光景となります。
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境内の蠟梅。
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1696年(元禄9年)に柳沢吉保(当時川越藩主)が三富新田として上富・中富・下富村を開村した際、一寺一社の制に基づき、開拓農家の檀家寺として上富に多福寺を、また中富に祈願所・鎮守の宮として毘沙門社(・多聞院)を創建しました。その後同境内に近隣地域より神明社を勧請し、同地域一帯の産土神として祀り、1868年(明治元年)の神仏分離令によって同院境内の西側は神社(神明社)として、東側は寺院としてそれぞれ独立し、今日に至っているのです。多聞院本堂の本尊は大日如来、 また毘沙門堂には、かつて武田信玄の守り本尊であったとされる黄金の小さな毘沙門天像が本尊として奉られています。 この像は、伝承によれば、像高一寸四分(約4センチメートル)、信玄が生前川中島などの戦に際し戦勝を祈願し兜の内に納めて戦場に赴いていたと伝えられるもので、1582年(天正10年)の武田家の滅亡後、同家縁の僧を介し 血縁のある柳沢吉保の手に渡り、毘沙門社の本尊として祀ったとされています。
毎年伺うにつれ境内が整備されています。季節により牡丹を見るなどの散歩コースもあるようです。また花の季節に伺いたいものです。
そして今年も日々元気に過せるように頑張ります。
posted by yunofumi at 20:30| ドタバタ日記

2017年12月29日

2017.12.26 屋久島ぐるり一周の旅3日目

JRホテル屋久島スタート8:30→千尋滝→安房港→屋久島空港→宮之浦港→鹿児島港→鹿児島空港→羽田空港

今朝はやや曇りの天候、気温10℃。皆元気に出発です。

千尋滝(せんぴろのたき)。
滝を正面に見て左手には約400m×200mの巨大な花崗岩の1枚岩が渓谷を作り正面には落差66mの滝が2段になって見えました。岩肌と木々の緑、そして滝の勢いを眼前に見て感嘆!!
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お土産は焼酎やグァバ茶も良さそうでしたが自分の好みでたんかん、杉細工のストラップ、フルーツジャムとトビウオのあごだし、そして焼きあご。やはり家族全員が食することが一番ですから、、、。それにしても荷物は膨らむ!!ということでザックひとつで帰路としたいため宅急便をお願いしましたら何と!3日間!それでもお願いして身軽に出発しました。
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心残りはもちろん縄文杉を見られなかったことですがこれは山深く入らねばならず初めからあきらめていました。しかし屋久杉の知識をまとめて知るには屋久杉自然館が見る価値があったと思いこちらは残念。

さて長い行程ながらほとんど歩くことなく軽々で高齢者の旅行には最適でした。一番の収穫はお天気に恵まれたこと。ヤクシギランドの木道を進むにつれ気温は5℃まで下がり寒かったですがマイナスイオンいっぱいでとても満足。島の生活は東西南北により気候や風土が違い面白いと思いました。やはり厳しい現実もあるようでした。島の皆様が自然を大切に今後も過ごされることを祈りサヨナラしました。感謝!!
posted by yunofumi at 20:32| あちこちウォーク